2013年7月5日

my manna
dolphins
dismembered

意訳:わが真菜(まな)ぞ解体されし海豚ども

生物分類上は海豚も鯨に差はなく、成体の体長で区分されることが多い。英語におけるdolphinとwhaleも同様である。日本では、鯨は冬の季語であるが、海豚も鯨の派生季語として最近の歳時記では冬に分類される場合がある。しかし例句の乏しさもあり、季語としての力は弱い。むしろ海豚という動物そのものが持つイメージ喚起力の方が強い。

日本では、鯨と同様に海豚も食用にされる。海豚食は、数が少ない、愛らしい、賢い、という主に三つの理由で欧米人から白眼視されている。2009年にはイルカ追い込み漁を批判する映画「ザ・コーヴ」まで製作されたが、余計なお世話だと思う。海豚も鯨も絶滅しないように捕獲量は規制されているし、オーストラリア人がステーキにして食べているカンガルーの方が(作者にとっては)遥かに愛らしいし、知能指数も人間よりはずっと低い(人間と同様の知性を持つという説はフィクションである)。

日本では、約八千年前の縄文前期にはすでに積極的な捕獲があったことが知られているが、そもそも海豚食は日本独自のものですらない。世界各地の先史時代の貝塚からは、海豚など鯨類の食物残滓が見つかっている。イングランド宮廷では十七世紀頃まで食卓に供されていた。現在は日本人でも海豚を口にすることは稀で、西洋文化の影響を受けている現代の日本人にとって、海豚食には「特別」なものを感じてしまう。神聖でありつつ禁忌のような感じと形容すべきか。それもあり、和訳では、本来は人を表す名詞に付いて複数であることを表す「ども」を「海豚」に付けてみた。幸い、五七五にもなった。

掲句自体で、多少面白い点は子音頭韻を使っている以外にたった一桁の音(節)数で構成されていることだろう。それが和訳になると十七音分の長さになってしまう。逆に考えてみれば、今回のテーマで、英語でも定型にこだわって五七五で書いてしまっていたら、和訳は短歌並みの長さになっていたはずだし、切れやキーワードの効果も消滅していたであろう。

しかし、それらよりも面白い点は英語原句でも和訳でも同じ発音の「manna(まな)」という語彙を使っていることである。しかも、ほぼ同じ意味である。英語のmannaは「天から降ってきた食べ物」「神に与えられた食べ物」を意味するが、ヘブライ語とアラビア語のmānから来ており、単に「食物」や「コース料理の中の一品」を意味する(聖書はヘブライ語の「man hu(これは何だろう)」を語源としているが、アラム語と混同した誤説らしい)。古代エジプト語の「mennu」(食物の意)を語源する説もある。日本語の「真菜」は「真のおかず」、つまり主となるおかずのことである。「菜」は野菜類だけではなく、肉類・魚類の料理も含み、肉や魚がおかずの中心素材になることが多いため、実際には肉や魚を「真菜」と呼ぶと考えてもよい。「まな板(俎)」も真菜を切り捌く板という意味がある。真菜を魚類に限定した言葉に「真魚(まな)」があって、海豚の形態を考えればこちらの漢字を和訳に当てても良かったが、真魚には川魚という意味もあるため、やはり真菜にすることにした。今回の和訳は、真菜という語彙が日本語になければ、どうなっていたのであろう。「主菜」でも「聖なる食物」でも違うし、まな板で切り捌くイメージも出ない。

ヘブライ語と日本語にほぼ同音のほぼ同意の語彙があると、日ユ同祖論者が喜んだりするが、極東にある日本が古代から現在まで世界の吹き溜まりであり、日本語も日本人も多種多様な言語と民族が時間をかけて混合してできた結果である、ということは事実である。法隆寺からローマ帝国で作られたガラスが出てくるのである。中国語や朝鮮半島の影響にとどまらない。

ちなみに、作者は鯨をよく食べるのだが、海豚は食べたことがない。生物分類上に差はないので、たぶん鯨のような味がするのだろう。しかし「海豚」と言われると別の食べ物である気がする。言葉が行動を律する好例。

Atlantic Spotted Dolphins - Stenella Plagiodon