2016年2月29日

源流の音にはじまる春の山

昔のことに思いをはせるのもいいけど、やっぱりいちばん関心があるのは、自分が生きているいまこの時、あるいは、自分が歩んでいくはずの未来なんだよなあ、と、美味しいものを口にするたびに思う。

山崎聖天から、駅を離れる方向にすこし歩くとあるパン屋さん、「パヴェナチュール」。イートインできる場所があるのでそこで食べていると、時折近所の方であろう人が訪れる。このお店ができたのは2年ほど前だそうだけれども、すっかり地元に根付いているのだなと感じる。こんなことを言いつつ、ここのパン、とっても美味しい。種類も豊富で、個性的なパンも揃うし、しっかりとしつつ優しい味。なぜだかよくわからないが、どこか懐かしさすら感じる。シェフもフランス仕込みの本格派のブーランジェリーがこんなところにあるとはなかなか恵まれている。

そういえば、大山崎には美味しい店がある。このパン屋は駅から少し離れているけど、JR山崎駅と阪急大山崎駅の間にあるお店はいいところばかりで、お昼時なんかに通りかかると、食欲をそそる香りが立ち込めている。島本町にはなるけれども、ウイスキー工場へ続く踏切の近くにはうどん屋さんがあって、谷崎潤一郎の『蘆刈』にも登場する。この物語で出かけてゆくのは、水無瀬離宮。河陽離宮とほど近い場所ではあるが、こちらの離宮は後鳥羽天皇が避暑のために造営したものなので時代としては河陽離宮よりもだいぶあとのものになる。いまこの跡地は水瀬神宮となっているのだが、まあ、この離宮の話をする気はなくて、この「水無瀬」という名前を考えてみる。

ここの一帯はかつて原野であり、古くから「みなせの」と呼ばれていたそう。後鳥羽天皇が離宮を造営してからは、和歌にも多く詠まれるようになった地名であるのだけれども、この「みなせの」、「水無瀬野」以外にも「水生野」だったり、奈良の東大寺に与えられたここの荘園は「水成荘」と書かれていたり。この地域には「水無瀬川」という淀川へ流れ込む川があるのだけれども、小さな川で水量も少ない。また、淀川も、こういう地形の場所なので瀬(川の浅いところ)となっているので、そういうところから「水無瀬」という字があてられたのだろうと推し測れるのだが、一方で「水生」や「水成」というのは対照的であるから面白い。

山崎は、古くから名水の里として知られている。山崎宗鑑がお茶を点てていたのも、この名水を使ってのこと。そしてこの名水を広く知らしめたのは、わび茶を完成させた茶聖、千宗易(せん・の・そうえき)である。利休、といったほうがピンとくるかもしれない。彼がこの地を愛したのも、ここに名水が湧き出たからかもしれない。JR山崎駅の目の前には妙喜庵待庵が現存している。数寄屋建築の原型であり、躙り口(にじりぐち)もこの茶室が最初、二畳敷というこの小ささもここが先駆けである。入り口には「見学謝絶」と書いた立て札があり、一か月前に予約が必要、団体・高校生以下謝絶とのことである。いまどき珍しいくらいの断固とした調子の立て札だけれども、なんだか心強い。大山崎町歴史資料館に行けば、茶室が原寸大で再現されたものがあり、こちらはいつでも見られる。狭い空間ながら閉塞感はなく、炉のある隅は壁に角がなく丸くなっている。とても優しい空間。乱世の世を生き抜いていた者たちでもここで安らぎを覚えたに違いない、と身をもって感じる。
名水とは常に誰かに求められるもので、そのおかげでいまや山崎の名水は世界的に有名なブランドとまでなっている。誰のおかげかなんて言うまでもない。鳥井信治郎と竹鶴政孝。三川合流で湿度が高く、朝と夜・季節ごとの温度差もある、自然豊かな交通の要衝。そして名水が湧き出る。だからこそ、ウイスキーの蒸留所がこの地にある。

名水の里、それが「水生」や「水成」という名の由来。地形だけでなく、さまざまな資源にも恵まれている大山崎の地。夏には姫蛍などの蛍が姿を見せる。大阪という河口の港湾都市と、京都という千年の都をつなぎ、リードしてゆくのが、この自然に囲まれた大山崎という地だったのかもしれない。
水源というものには、自然と命が集ってくるもののようだ。そして命が集まれば集まるほど、より重厚な歴史が紡がれ、そして文化が、生活が、そして自然が発展してゆく。

大いなる河川、その北に位置する河陽国から、さまざまな大河へとつながっているのであろう源の音を耳に、今日もいい日だったな、と家路に就く。