2017年4月29日

メビウスの輪となる前の蛇の衣

句集『虎の夜食』所収の俳句作品と短文はすべてフィクションであるとした。つまり、それ以外の部分、あとがきと略歴はノンフィクションであるというわけだ。そしてこの連載は「あとがきのつづき」であるから当然ノンフィクションということになる。ノンフィクションには区切りはあっても終りはない。したがってこの連載の続きはこれからも水面下で続いていくだろう。
「人間は物語る動物である」(千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』ちくまプリマー新書)ということなら、フィクションもノンフィクションも、すべて私が作り出してしまう物語であり、事実に基づいている(と私が認識している)かどうかの違いがあるにすぎない。それらは裏表の関係であるとも言えるが、実のところ私の俳句作品にも個別に見ればノンフィクションに近いものも少なくない。フィクション、ノンフィクションはきれいに二分できるものではなく、むしろどのように読んでもらいたいかという恣意的な分割なのかもしれない。
私は『虎の夜食』のあとがきに「この二十年間に私の野心や自負心は衰え」たと書いた。「野心」とは、自らの創作によって俳句という表現形式を少しでも拡張させたいというものだ。「自負」とは私にそれが可能であろうという思いである。一方それらが「衰えた」としたのは、私自身の手でそれを実現できなくとも良いと思うようになったということだ。
私が俳句を知ったとき、書物の中にしか俳人は存在せず、仲間は一人だけだった。句会に出て多くの先輩を知ることができたが、同世代や年下の仲間はほとんど存在しなかった。その頃、自分こそが最後の俳人であり、すべてを相続し、すべてを終わらせるだろうとまで思い上がったこともあった。それはもちろん勘違いであり、いま周囲を見渡せば、同世代、年下含め多くの意欲に満ちた俳人たちが犇めき合い、私が相続すべき余地などどこにもないと思われる。いや、そもそも俳句において誰かが何かを占有できるという考えそのものが誤りなのである。
今回の連載を通して、これまで私が何を作り、何を壊してきたかを振り返ることができた。では、これからの自分がどうなるか、今までどおり行きたいと思った方向に進み、行き止まりで後戻りすることを繰り返すほかないのだろう。

(本編は今回が最終回です。次回は番外編として掌編小説を掲載させていただきます。)