糸瓜忌の窓から窓を風つらぬく
群青の発送作業が終わったあと、編集部のメンバーで鍋焼きうどんを食べた。やっぱり鍋焼きというと、ちょっと贅沢。その帰り、福田若之さんと日暮里駅まで歩き、山手線に乗った。電車に揺られながらも、ぼくの頭には鍋焼きがぐつぐつ煮えている。しかし、さっき食べた、あの赤いヤツ。ぼくは、蟹を食べたと思った。おいしい。しかし、おかしい。よく見たらカニカマだった。心底ムカついた。だからぼくの頭はぐつぐつ煮えている。
カニカマはおいしい。たしかにおいしい。でも安っぽい。せっかく鍋焼きを頼んで贅沢気分だったのに、カニカマはぼくらに現実を突きつける。
カニカマ「お前の贅沢は、所詮カニカマレベルの贅沢だ。」
ぼくのるんるんを返せ。カニカマに気分を害されたぼくの頭は、カニカマのことでいっぱいになった。口から溢れる呪詛を、若さんはずっと聴いてくれた。
カニカマは蟹の旨みを目指している。そしてそのおいしさ自体は、時に水っぽい蟹の身を凌駕する。その目覚ましい進化は、弛まぬ企業努力によるものだろう。それ自体は素晴らしい。しかし、カニカマは限りなく蟹に接近してしまったゆえに、蟹になりえないという事実に直面しているのだ。カニカマがもし低レベルであったならば、ぼくはカニカマをはじめから覚悟し、受け容れて味わうことが出来ただろう。ただ、現実には、進化したカニカマがあたかも蟹そのものであるかのような貌つきをしている。カニカマを「カニカマ」として食べる分にはおいしい。しかし、カニカマが下手に美味しくなってしまったがゆえにぼくは「蟹」と比較して味わってしまうようになったのだ。カニカマは決定的に食感が人工的だ。蟹には及ばない。だからここには、カニカマが蟹に近づけば近づくほど、カニカマは蟹たりえぬという矛盾が聳えている。ぼくの怒りは次第に、カニカマに対する憐れみへと変わっていく。若さんは「うんうん」と頷いている。蟹にはなれぬことを予感しつつも、蟹に接近せざるをえないカニカマの運命の儚さよ。これは、かつて日本が幸福を求めて経済成長を達成した後に自覚した、「本当の幸福とは何だったのか?」という問いに似ている。あるいは、マルクスが「資本主義は成功ゆえに最期を迎える」と説いたように皮肉だ。真のカニカマとはなにか? 時代は、我々に最大幸福を与えるカニカマを考えなければならぬ。カニカマを蟹に似せれば幸せだった時代は既に去った。現代の我が国を覆う閉塞感と同じように、カニカマの未来も曇っているのだ。
ある日テレビを見ていたら、「フランスでカニカマが大人気!」と特集されていた。フランスでは”SURIMI”と呼称され、スーパーでの売り場面積も大きく種類も豊富。パリのサンドイッチ屋ではカニカマサンドが売られているらしい。ぼくは、「これだ!」と直感する。
カニカマが孕む矛盾を打破するためには、「カニカマは蟹の代替品である」というスキーマ、突き詰めれば固定観念を転換しなければならないのだ。何故、フランスでカニカマが愛されているのか? おそらくそれは、彼らがカニカマを蟹の代替品だとは捉えていないからだろう。彼らにとって”SURIMI”は「味付けかまぼこ」であり、それは日本から渡来した新たな食材としてフランスの食卓に清新な風を吹き起こしたのである。蟹という枷を離れたカニカマは「蟹の代替」という需要と引き換えに、その味わいを遺憾なく発揮するに至ったのだ。カニカマがよりよいカニカマとなるには、「カニカマ」であってはならない。「味付けかまぼこ」として、蟹とは違う美味しさを追究しなければならぬ。よりよいカニカマはもはや「カニカマ」ではないのだ。若さんが大きく息を吐いた。若さんのこころも、震えているのだろうか。
私は予言する。やがてカニカマは「蟹の代替品」としての低廉なカニカマと、もはやカニカマを超越した味付けかまぼこに分化するだろう。それもまた、真のカニカマを求めるが故に、カニカマでなくなってしまった赤い食品の憐れな成れの果てなのかもしれない。