2017年6月28日

かさなるとのびる二ひきの猫霍乱

いま生きている世界の経験的に知られている物理的世界と、異世界で既に知られている物理法則とは異なる物理法則で支配された想像的な世界と、「ことば」でイメージ可能なふたつの世界のあいだには、もうひとつユニークが世界が存在することが知られている。

量子力学の世界では、いわゆるニュートン力学や相対性理論とは異なるミクロで決して経験的ではないような世界が広がっている。どうやらそこでは物質は粒子であると同時に波であるような性質を持っていて、放射性物質と一緒に箱のなかに閉じ込められた猫は誰かが箱を開けて中を見るまでは生きていると同時に死んでいる。

物質が物質としてそこに存在することが、「確率」で支配されているような、いわゆる「常識的な」風景とは異なるかたちでミクロな世界は出来上がっているらしい。それを経験的なものとしてイメージすることは難しいけれど、我々の見えない領域で世界は実際にそうなっているのだという。

詳しいことは分からないが、このことは我々が生きているこの世界と、我々が異世界だと思っている別の世界とが実はまだ知られていない物理法則で地続きである可能性を感じさせないだろうか。

大事なことは、常に知られていない領域があるということで、そこにはイメージ可能ないまこの世界とは異なる別の「現実」が広がっているということだ。

チェシャ猫とシュレーディンガーの猫は、同じ猫なのかも知れないのである。

そしてそのような一見、馬鹿げていると思えるような「現実」は、「ことば」の向こう側に確かに見え隠れしているのである。

世界は「恣意的な文字列」でできている。それは、私たちが知っている「文法」ではない、別の「文法」で支配されている世界の文字列だ。それは我々の「常識」を覆すために与えられたものではなく、まだこの世界では知られていない、いや、この世界にそのまま重ね合わせてあるような別の多様な「現実」の姿を見るための、鍵になることばたちだ。

そして、そうした「恣意的な文字列」を通してこそ、まだ経験したことのない、けれども居ても立ってもいられなくなるような、激しくこころをざわつかせる、新しい文脈に出会うことができるのではないだろうか。