2017年6月29日

犬の眼に映る蛇あざやかにいる

「書くこと」にとって「読まれる」とは、どういうことだろう。
そこで「読まれるもの」はいったい何だろう。一般的に「書かれたもの」が「読まれる」とき、そこで「読まれる」対象とは、「書かれたもの」それそのもの、それだけ、だと考えられていないだろうか。しかし「書かれたもの」がそこに明らかにされることで、その周囲にはその「書かれたもの」を支えるあらゆるものが「読み」の対象として潜在化しているとは言えないだろうか。

「書かれたもの」「書かれたこと」「書こうとしたもの」「書かれなかったもの」「書けなかったもの」「書いてしまったこと」これらが実はポジティブな読みの対象になるのではないか。「言語化」されることで逆に隠されてしまったもの、あるいは「言語化」に失敗したものによって、「ない」から「ある」に転化された対象、見えていないものであるはずなのに「透明化」されてそこに「ある」もの、こうした「ない」と「ある」のそれぞれの領域が重なりあうような領域が生まれる。それは「ある」と「ない」とが明確な境界線をもたず、「ない」と「ある」との論理積として世界が多様化されているということを示しているのだ。

これは「読む」ことが、あたかも推理小説に登場する探偵のように「ある」ことのアリバイを暴くような行為と似ていないだろうか。そこで「何が起きたか」という見える領域は、常に眼を欺く「ある」ことのアリバイで、そのような「出来事」を真の「現実」として支えているのは、そこで「起こらなかったこと」「起こりえたこと」(シャーロック・ホームズにおける「吠えなかった犬」のように)といった「ない」ことのポジティブな作用なのだ。これはひとつのパースペクティブの変化である。つまり、それを「起こらなかった」というネガティブな事象として捉えるのではなく、「起こらない、ということが起こった」というポジティブな事象に置き換えることで、そのネガティブな事象とポジティブな事象との差異が明らかにされる、ということなのだ。もちろん、この差異は抽象的なものであるのだが、それが読者自身の心理をくぐり、あたかも「それはもう、そうとしか思えない」ものとして現れる。

そこで現れたものは、その視線の外に出るともう「まぼろし」としか言えないのだけれど、その視線の内ではそれが全てで、その視野を埋め尽くしていて、その例外はない。それはまるで「現実」とはかけ離れた詐欺のようなものだと感じるかも知れないが、まさにそれがわれわれが「現実」と呼んでいるものなのだ。

そのような「現実」を生み出す視線こそ、いわゆる「人間的」な視線だとは言えないだろうか。「人間的」なものは「人間」という実体が消えてもそこに「ない」ものとして「あり」つづける。

「読む」という行為は、「書かれたもの」を通り抜けて、まさにこの『「ない」ものとして「あり」つづける』ものを「読む」ことなのではないだろうか。