2014年11月27日

都市に覚め冬木の肌に触れにゆく

都市

昔佐藤文香さんに、「キリンジの中ではどれが一番好きか」と問われ、
エイリアンズかdrifterだと答えた覚えがある(バランスを取ったつもりだった)。
そもそもキリンジは僕の中で「好き音楽ユニット」の上位に入っていたので、
この曲は当時から大好きだったということになる。
大学1年生、上京して間もないころの話だ。

一方、この句は同時期に歳時記で知り、邑書林句集文庫の『踏歌』で改めて読んだ。
エイリアンズの出だしは、
「遥か空に旅客機(ボーイング)音もなく 公団の屋根の上どこへ行く」
耕二の句は都市詠の連作的な一連の中におさめられている。
この歌は都会というよりもおそらくは少し郊外の話であろうが、
なぜか僕には耕二の句とキリンジの歌が重なって像を結んでならなかった。

俳句という形式が現代の風物を内に取り入れたとき、
必ず郷愁をどこかに孕むのはなぜか。
それは、俳句があまねく、「現実」想望の文芸として機能しているからではないだろうか。
この括弧付の「現実」は、
想像というフィルターを通した戦火であり、
俳句という再帰的なフィルターを通してみた俳句そのものであり、
作り手というフィルターを通したその実生活であったりする。

現実への違和を拭えないまま無根拠にお互いを肯定し合うことで辛うじて成立するエイリアンズの世界は、
東京に何かを夢見て、その何かの正体が判らないまま東京に暮らすひとりの人間を確かに揺さぶった。
大都会を墓碑と呼ぶ句を口ずさむとき、
葬られたのは大勢に夢見られた「何か」の身元不明遺体に思われてならない。

渡り鳥にもなれず、ボーイングでこの町を脱出することも叶わないならば、
せめて俳句の世界はあかるい世界であると信じたい。
そう思っている。

新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 福永耕二 『踏歌』
「エイリアンズ」 キリンジ 『3』