2016年2月28日

借景の山に空ある二月かな

20160228

山崎聖天へ上ってきた階段とは別の道を通って下りてゆく。途中には仁王像の佇む立派な山門、そしてその先には鳥居。扁額には「観音寺」の堂々たる文字。鳥居があるお寺、というのも今ではなかなか珍しいものであるようにも思う。

その鳥居を抜けた辺りもまだそれなりの高さがあって見晴らしがいい。辺りを見遣っていると、「史跡大山崎瓦窯跡」と彫られた石標が目につく。大山崎にも瓦窯があったのか、と思って説明板を読むと、どうやらこの瓦窯跡、発見されたのは平成16(2004)年度の発掘調査においてらしい。見つかるまではどうだったのか、ということも書いてあって、「当地付近では数十年前から平安時代前期の瓦が出土することが知られ、平安時代に設けられた山崎駅や嵯峨天皇の河陽離宮及び山城国府に関連する建物の遺構に関わり出土するものと考えられていました。」とのこと。いまの目の前の現象にはいくらでも合理的な説明を与えることはできるけれども、それが正しいなんていう保証はどこにもないし、新たな何かが発見されたら簡単に覆るなんていうのも普通のこと。何が真実か、だなんてなんにもわからなくなってくる。邪馬台国がどこにあろうと、義経がどこで死のうと、坂本龍馬や中岡慎太郎が誰に殺されようと、いってしまえば僕にとってはそんなことどうでもよくて、いま僕が立っているこの場所でこれまで様々な人々がいろんなことをして、つまり、なんらかの歴史がそこに存在するということがいちばん重要なことで、それだけが真実としてその場に佇んでいればそれで十分だと思っている。それは歴史へのロマンだとか憧憬だとかそういったものではなくて、いま自分が生きているというただそれだけのことで、新たな歴史を紡いでいくということができているのだという安堵に似たような何かなのだと思う。こう感じるだけで、肩の荷のいくらかがすっとおりてゆくような気がする。「兵どもが夢の跡」なんてものはひっそりと、地下の深い層にしまいこんでおいたらいいのであって、世界というものは過去のひとのためではなくいまこのときを生きるひとたち、そしてこれからを生きてゆくひとたちのためにある。「兵どもが夢」も決して過去のためのものではなかったはずだし、いまの世界の姿がその夢の通りであろうと反していようと、過去に堆積した層がなければいまの地層はできあがらないのだから、いまの僕が歴史に対して感じるのは、やはり憧憬とかロマンとかといったものではないのだなと改めて思うし、懺悔でも決してなく、敬愛、といったところがいちばん近いのかもしれない。なんだかよくわからないことを書き綴っているけれども、この地で立派な景色を見ていると、ふわふわとした何かが心のなかにみたされていくような気持ちになるからなのだと思っている。

対岸の男山の手前に横たわる木々、ここは木津川と宇治川を区切るように設置された背割堤というところである。明治時代まではこの二つの川は伏見区の淀(競馬場や淀古城跡、淀城跡がある)付近で合流していたらしいが、治水のための明治・大正の工事を経ていまのかたちになったという。この堤にいまはソメイヨシノがびっしりと植えられていて、時期になれば桜で一色に染まる。そんな堤である。

いまの時期はまだなにも色づいていないけれども、桜の時期には眼下の光景も、自分の後ろの山崎聖天も桜に染まる。楽しくて美しいいまが目の前にあれば、他に望むものなんてない。