2015年9月29日

迷ひ子が椋鳥の無数の眼をゆけり

かつて秋葉原には、交通博物館という建物があった。秋葉原駅の電気街口を降りて万世橋へ向かうと、そこには殺風景なビルが建っていた。交通博物館は1930年代に開館して、2006年に閉館した。いよいよ閉館するまで、祖母の手に牽かれて何度も通った。祖母はかつて秋葉原駅前に存在していた神田市場で青物問屋の税理の仕事に通っていたため、近辺には土地勘があった。まさにwindows95と同い年のぼくを連れて、家電からパソコンへ、そしてサブカルチャーの街へと変貌していく秋葉原を歩いた。

かつてクルマが好きだったぼくは、同時に、電車にも興味が絶えなかった。乳母車に乗っていたような頃こそはそのメカニックなフォルムにゾクゾクしていたのかもしれないが、四五歳になると電車の「運行」というものに惹かれはじめた。時刻表と路線図の存在。始発と終着、そして経由駅を接点に絡み合う時間の総体は、偉大な秩序として幼い胸に迫った。頭の中で拙いダイヤグラムを組み、ときには自由帳に架空の路線図を描いた。幼いぼくの空想は、人間が空を飛べたら、というような空想ではなく、現実世界とパラレルワールドの関係にあるような空想であった。

博物館は、今にして思えばそれほど大きくはない建物だったのだと思う。所狭しと車輌が並んでいて、室内のあらゆる場所がひんやりとしていた。交通博物館というだけあって上の階にはクルマや飛行機の模型展示もあったのだが、ぼくの記憶はとりわけ、信号機の部屋にある。それは、信号機ばかりが並んでいる白い部屋だった。不気味だった。一番嫌いな部屋だったのに、ぼくはその部屋を最も鮮明に覚えている。幼心にも染み込んだ「赤は止まれ」「青は進め」という記号の意味が、その部屋では失われていた。だから、ぼくはまっしろな無意味の世界に放り出されてしまって、きっと不安になってしまったのだ。それでも祖母に縋った記憶がないのは、せめてものあえかな矜持があったからかもしれない。

このごろ俳句について考えるとき、かつて信号の部屋に立ち尽くした記憶が蘇るようになった。ぼくが立ち止まりたくなる俳句は、もっと広く言えば、ぼくが不意に立ち止まることばは、まっしろな部屋の信号機のように意味を裏切る。それは、ぼくらが今まで社会的生存の大前提として用いてきたことばから、その意味を剥奪するか、或いは異化するということだと思う。幼いぼくを惹きつけた不気味さはことばのなかに溶け込んで、大きくなったぼくの脳球を溢れ出るようになった。

9月1日からこれまで、ぼくは様々な駅を思い出してきた。そのどの街にも何らかの思い出があって、そしてまた、新しい思い出が折り畳まれてゆく。そうして眺める駅は、街は、いつだってぼくのことばで出来ている。街の信号機は常に圧倒的な秩序として人々を操るけれど、その秩序が停電したとき、ハリーポッターでいう9と3/4番線的なところへ迷い込めるんじゃないかって、ぼくはワクワクしているのだ。幼いぼくの9と3/4番線の入口は、あの交通博物館の、片隅の、白い信号の部屋にあった。いまもその入口は、裏路地に、横切る野良猫に、背負う鞄の中に、その鞄の中の句集に、きっと潜んでいる。