燕帰る誰も死なない映画へと
93・9キロ(9月6日計測)
やばい、金曜ロードショーの「紅の豚」を観ていたらこれを書く時間がなくなった。
先日、「風立ちぬ」を映画館で観た。いろいろ思うところはあったが、知り合いの「要するに、「紅の豚」と同じ、男のロマンってことでしょ」という感想に納得。
とは言っても、銀行で「愛国債権を購入して国家と民族に貢献してはどうか」と薦められ「そういうことは人間同士でやんな」と答えたり、空軍時代の仲間から空軍に戻るように言われ「ファシストでいるよりは豚でいるさ」とすましていたあの豚のようなスマートさ(「豚のようなスマートさ」?)が「風立ちぬ」には見られないこともまた事実だ。
確かに紅の豚では「ファシズムに突き進む国家」と「古き良き男のほこりを賭けて戦う俺たち」との対立がやや単純すぎるとも思える図式で示されている。そもそも彼が豚の姿をしているのは戦争を繰り返す人間の業に絶望し、ドロップアウトしたことの象徴であるというのは想像に難くないのだから、この映画の最も重要なテーマにその対立が入り込んでいるわけだ。
「風立ちぬ」の堀越はもっと消極的で、会議で軍人の話を一切聞き流すとか、「機関銃がなければもっと機体を軽くできるんだけれど」と愚痴ったりするくらいだ。もちろん軍国主義に賛成していないことははっきりしている。確かに夢に向かって生きている。一生懸命生きている。彼の場合にはもっと全てが混沌としているのだ。病んだ彼女とともに生き、美しい飛行機を作る。そこのところをいかに美しく描くか、ということに映画の全てが賭けられているのだから、他の要素が一切切り捨てられている。切り捨てることによって画面のこちら側の私たちは、どうしてもそれを考えなければならないとも言える。
豚の生き方は、それがどういう結論を迎えたのか誰も知らなくても、おそらく幸せだったと視聴者は納得できる。では堀越の生き方は?この映画が彼の人生の最も美しい部分だったとしたなら、その後の彼がどう生きていくか我々には想像がつくだろうか(あの、もちろん実在の堀越氏ではなく、映画の中の堀越のことですよ)。つまり、妻を早々に失い、自らの作った飛行機で多くの若者が命を失ったそのあとで、彼が何を思うか、誰にも分からない。とは言え、それは戦後68年を経た我々の視点であり、そうやって歴史を後出しじゃんけんのように断罪することはひきょうではないか、そういう結末が分かっていたとしてもそのときはそう生きるしかなかったのだから、と言うのが、この映画の思想だろう。
ならば、なおのこと、彼の人生の美しさだけでなく、彼の戦後をも本当は描くべきだったのではないか。戦争をはさんでも決してその思想に破れ目ができないように(すなわち現代の価値観で容易に共感できるように)周到に用意された豚の童話ではなく、実在の人物を取り上げて「男のロマン」を描こうと言うのであれば、それだからこそ、彼の戦後までをきちんと描くことに意味があったのではないか。
うーん、やっぱり、そもそもの話、宮崎駿が実人生と切り結ぶには、豚の童話の方が合っているのではないだろうか。童話とは言え、豚とカーチスの対決の最後にイタリア空軍が乗り込むことで良い時代の終焉が告げられる切なさは、確かにこのくだらない世界の一端を垣間見せているのだから。
・・・あれ、今日はダイエットの話にならなかった!豚に絡めて出すつもりだったけど、ジブリに熱くなってしまった。