2015年9月1日

まつさらな雨が墓参の背をつらぬく

小平駅を降りて5分ほどのところに、冨澤赤黄男が眠っている。小平霊園には富安風生や角川源義の墓もあるらしいのだが、ついでに参るのは失礼なので遠慮することにした。蝉がゆらめくように鳴いている。〈大地いましづかに搖れよ〉というフレーズが思い浮かぶ。途中でセブンイレブンに寄って、プレミアムなお線香とライターを買った。

少し迷って、「冨澤家」と書かれた墓を見つけた。下に「三好家」と書かれていた。三好潤子さん。赤黄男の墓は、もはや赤黄男だけの墓ではなかったのだった。

赤黄男が出征地から送り『旗艦』の昭和14年1月號に掲載された連作「ランプ」は「――潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ――」という前書にはじまる。『京大俳句』の同年2月號で平畑靜塔が連作中の〈灯をともし潤子のやうな小さいランプ〉を「殊にかなしい感情を表してゐる」と評していたことなどを思い出した。それから、とんでもない時間が経ってしまったのだった。戦争が終わり、そのちょうど50年後に僕が生まれた。15歳になる直前に俳句に出逢い、そうして20歳になったぼくが線香を捧げている。ぼんやりと考えているぼくのこれからを、赤黄男に話した。時間がぼくを包み込んだ。

やがて「冨澤家」ではなく、どうしても赤黄男の証を目の当たりにしたくなった。「冨澤正三」という名前を網膜に灼き付けたくて、墓誌を探した。「失礼します」と言って、墓の裏を覗き込む。戒名の下には「正三」ではなく、「赤黄男」と書いてあった。