2015年9月30日

詩を書いてゐれば身に入む窓ひとつ

子規庵へゆくには主にふたつのルートがある。最も近いのは、鶯谷駅から。しかし鶯谷駅周辺が東京を代表する風俗街なのは「クプラス」第2号における高山れおなさんのレポートの通りである。そこでもう一つのルートでは、隣駅の日暮里駅で降りてそのエリアを迂回する。中高生の頃は日暮里駅のそのまた隣駅に通っていたので、放課後に制服で子規庵に行く際には流石に日暮里駅から向かうようにしていた。しかしお酒も煙草も楽しめる年齢に達してしまった今では、余計なことを気にしなくても済むようになった。それは確かな喪失感である。畏怖と好奇心を抱いていた純粋な時代は、過ぎ去ってしまった。

鶯谷駅を降りて、子規庵へ向かう。9月中は復本一郎さんの監修で特別展示が行われていた。確かに、高校生の時分に来たときとは少し、内容が変わっているようだ。子規の自画像の隣に浅井忠の描いた子規の画が飾ってあったが、どちらにも質の異なる迫真を感じる。所狭しと展示がなされている二間の和室は、かつて門人達でひしめいていたのだろう。子規が〈小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん〉と詠んだ当時、窓の左奥には上野の山が実際に見えていた。

忌日が季語になる俳句にとっては、俳人がどの時期に死ぬかは結構大きな問題だ。その人自身の、あるいは代表句のイメージに合った時期に亡くなると、美しい。寺山修司は、春の終わりを告げるように5月4日に亡くなった。子規の場合は、子規庵の庭に鶏頭が咲く頃に亡くなった。こう言ってしまえば不謹慎かもしれないが、鳳作の忌は夏であって欲しかった。ちなみに、篠原鳳作と平畑静塔は同じ9月11日に没している。

ぼくと同い年の堀下翔は俳人か否かを問わず、様々な忌日俳句を書く。鷺沢萠とか赤塚不二夫の忌日を悼む。親しくなりはじめた頃に、彼が草田男の墓を参ったと言ってずーっと喜んでいた。それ以来てっきり霊園にゾクゾクするタイプの人間で墓参が趣味なのかと思い込んでいたが、「草田男の墓だから行きたかったんだ」と言い張っていたのでどうやら違ったらしい。それでも、小平霊園でのことを思えば彼の気持ちはよくわかる。結社の主宰を仰ぐ堅固な師弟制度を知らないぼくらは、どこかに偶像を求めているのかもしれない。そう分析したら、彼に怒られるだろうか。

そんなぼくらは、小さな部屋に集まって、俳句の話をするようになった。堀下翔はぼくの家にやってきて、俳句の話をして、やがて睡る。春になって青本姉妹や宮崎玲奈なんかが集まってきた。みんなで暴力的に俳句を書き散らして、疲れて眠る。そんな句をひっそりと、雑誌やウェブに載せている。そうして朝が来ると、堀下翔はひとり早起きをして野方駅の周りを散歩したり、ぼくの本棚の句集を写したりする。そんな日々の中で、何かが起こるんじゃないか、って試験管をぷるぷる震わせているのだ。子規が臥したあの小さな座敷も、そんな空間だったのだと信じたい。そうでなければ、夢がない。

ぼくは今、めっきり涼しくなってきた部屋で、俳句を書いている。たまにどうしようもなく無力さを感じて虚しくなるときもあるけれど、長風呂をしてのんびりとしてみる。虫の音を聴きながら、考えているのか、眠っているのか、祈っているのか、そんな姿で身体をあたためる時間。幸福な現在に身を置けば、現実は獣のように迫ってくる。それこそ将来の職業選択も、俳句ありきで考えてしまった節があって、だから、ああ、俳句を書かねばならぬ。書くのだ。ぼくの過去にも未来にも、背くことはできない。車輪は、動き出してしまったのだ。