2016年8月1日

(よ)びさしてゐる房(ふさはら)のからだかな

ある人をその名で呼ぶということは、とても美しく、とても不思議で、また、とても恐ろしいことだと思う。そしてまた、ある人がその名で呼ばれなければならないということ―あるいは、その名で呼ばれてしまうということ―は、僕にとってその美しさや恐ろしさのただなかに身を置くということであって、だから、僕がそこに凄絶な美のようなものを感じとったとしても、それほど奇妙なことではないような気がする。
名前といえば、今から七〇年以上前には創氏改名ということがあった。創氏改名にはさまざまな評価があるけれど、それを悲しみや怒りとともに思い起こす人が少なからずいるということは間違いないだろう。ならば、それにもかかわらず―いや、あるいはそれゆえにこそ―名前に何がしかの凄絶な美を感じとってしまったとき、僕はどうしたらいいのだろう。
僕は名前の持つこの得体のしれない美について書くつもりだ。僕のとりあげる名前は、いずれも日本の名字だが、同時に、そのいずれもが創氏改名の記憶とともにある名字である。そしてまた、各句に付す短文は、人や土地の名前についての僕のささやかな記憶に関するものである。したがって、それらの短文は一見するとまるで句と無関係のようだが、僕にはそれらがいつしか、ひとつの流れをかたちづくるようにも思われる。