2012年12月28日

藁の象らが箱で暮らすの年用意     SSTbot

SSTスクラップ解題

今年もおしまいに近づいてきたので、SSTのこの一年間の活動をまとめてみました。

一月。  なし。
二月。  なし。
三月。  なし。
四月。  なし。
五月。  なし。
六月。  なし。
七月。  なし。
八月。  なし。
九月。  なし。
十月。  なし。
十一月。 なし。
十二月。 スピカ。

なんでしょう。太宰の「HUMAN LOST」のようになってしまいました。

SST結成らしき年より三年、自主的な活動と呼べるようなものはほとんどしていないようです。
突然現れてはなぜか写真、また現れたと思えばなぜか音声、いつもなにかざわざわとしたインパクトを残し、去って行くのです。
SSTの活動の拠点は、なにかをひっくり返してやるぞ、新しいことをやるぞ、というような、がつがつした意志というよりももっと、流動的なもののように思います。俳句の世界では若い人たちを主として「ユニットブーム」がおとずれているらしいのですが、結成自体も、そもそもただこのブームになんとなく乗っかってみただけだと思います。わざわざユニットを組んでいるのに、こんなに自分たちでなにもしない人たちはいません。ネット隆盛の昨今、HPもなし、かといって紙媒体でなにか作るでもなし、場所を借り、そこで何のためでもなく好きなことだけをやってきています。

これは悪口ではありません。格別誉めているわけでもありませんが、どちらかというと、「いいよねー」という意味で書いています。この「いいよねー」には、単純に俳句を読んでいる者としての「一方的な思い」が含まれています。うまく言えないのですが、読者にまず届くのは、作品自体です。その人自身がどんなひとか、どのような性格なのか、そういうものは、あとから知るか、どうでもいいものです。イベントも、いいでしょう。その作者と目の前で出会うという実感、場の空気、それはなにものにも代えがたいものです。
ですけど、わたしはもっとおうちで、ひとりで、勝手に、たのしみたい。
そういう意味で、ただひとりでたのしむための素材として、SST三人の俳句があります。
三人の俳句はそれぞれ強い特徴があります。正直、三人なぜ組んだのかよくわからないくらい、作風はかけ離れています。まず、だからいいなあと思います。ごちゃごちゃしている感じ、なじまない感じ。それぞれが勝手にやっている感じ。

欲しいのは、俳句だけです。ぐっとくる作品だけです。その作者の実際のキャラクターではありません。キャラクターがあるとしたら、作品そのものの性格だけです。そのほうが、夢があります。それはどうでもいい感じに、ぴかぴか光っている夢です。