2011年6月29日

猫二匹完全左右対称なり

世の中には大きく分けて「犬派」と「猫派」の2種類の人間がいる。

一方、僕が周りを見渡しての実感だが、
俳人においてはその大多数が「猫派」に属しているように思われる。
統計をとったわけではないが、
8割近くはどちらかというと猫を選ぶのではないか。

思うに、猫と俳句は似ている。

犬は饒舌だ。湿っぽい。
こちらに気に入られようと、
あらぬ方角へ放たれたフリスビーを
はあはあ息を荒げながら必死に追いかけていく。
それが犬という動物。

一方、猫はドライだ。
こちらが興味を持って近づいていっても、
何食わぬ顔でそっぽを向いてどこかへ行ってしまったりする。
(どう考えてもフリスビー競技には向いていそうにない)

俳句にもそういうところがある。

こちらが理性的に認識しようとすると、
するりとその理性の網目をすり抜けてしまうような、
あるいは、自分が書こうと思った通りに、
俳句の形式が書かせてくれない、といった
考えようによっては厄介な性格が
俳句にもあるように思う。

ちなみに僕は犬も猫も両方好きです。

以下、猫の登場する句をいくつか。

しろたへの鞠のごとくに竈猫     飯田蛇笏
満月やたたかふ猫はのびあがり     加藤楸邨
西もひがしもわからぬ猫の子なりけり     久保田万太郎
抛らばすぐ器となる猫大切に     摂津幸彦
何もかも知つてをるなり竈猫     富安風生
恋猫の恋する猫で押し通す     永田耕衣
行く年や猫うづくまる膝の上     夏目漱石
冬空や猫塀づたひどこへもゆける     波多野爽波
葬る時むくろの猫の鈴鳴りぬ     日野草城
冬夜ふとむかしの猫の名を言へり     村越化石