一月の雨に奪はれ窓遠し   野口る理

この10日間で、る理さんの俳句における「遠さ」についてなんとなく考えていた。
る理さんの俳句は作者のリアルな生活から一歩距離を置いた読み方がなされている。なぜ遠いのかと言えば、「制御性」という点でテクニカルであり、「慎み深さ」という点でアンリアルである。前者は文体、後者は内容にあたるのかもしれない。さらに、る理さんの俳句における物語性のなさを感じたように、作中主体を俳句で構成しようという意思は見られない。
る理さんは、生活を言葉で表現するのではなく、思考を言葉で表現しようとしているのではないか。それは言葉派のように言葉で世界を形作ろうとする試みや、写生・花鳥諷詠のような外界を言葉で再構築しようという営みとは異なる。る理さんは外界を一端思考回路に取り込み、それによる心の動きを描き出そうとしてる。
掲句。一月の雨を外界だとすれば、窓は外部と内部の境界にある存在だ。この句で雨に奪われたのは作者の心であり、外界と心が漸近したときにはインターフェイスである窓は不要となり、作者と思考を引き離してしまう。

「ほくろ」(2013.01)より