海獣に鰯愛され流るる血   野口る理

る理さんの俳句において、恋愛が明確に描かれることは少ない。それは彼女が俳句の中に架空の物語を持ち込まないせいもあるだろうが(自分の恋愛を積極的に読むというスタンスを明確に取らない限り、恋愛は架空の作中主体のものとして委ねる必要がある)、る理さん自身に「愛を表現すること」への慎み深さがあるのだと思う。よって、愛は掲句のように何回転かのひねりを持った詠み方をされざるを得ない。この愛は一方的な愛であり、搾取/非搾取の関係の元で完結する愛だ。「愛とは本質的にこのような~」といったマクロな語り方もできるかもしれないが、僕はこの愛を本質論としては読みたくない。読めない。ただ、様々な愛のかたちがあり、ミクロには掲句のような愛も愛たりうるのみ。この句において流れる血の赤さだけが結果であり、現実はそこに存在する。

「教えよ」(2012.10)より