枯野の果あれは砂時計工場の灯  神野紗希

夜の枯野を思った。枯野が一面に広がっていて、その先に、工場のものと思しき灯りが見える。他のものよりもかすかで、弱々しく、でも人工的な明るさ、怪しさ、動きも、合わせもっているような、あの灯りだ。

ここで注目したいのは、「砂時計工場」である。 聞いたことはないが、おそらく砂時計のみをつくっている工場なのだろう。 そして「砂時計」だが、これは前回も指摘したように、様々な意味を合わせもつ、使いづらいモチーフだ。「砂時計工場」というと、時間を生み出すものをつくっているところ、「砂時計」よりも、もっと神的要素が強いところだといえる。その現実感のないものを、「あれは」という措辞で、かすかに、でも確かに存在を提示している。この中の人は、どこにいるのだろう。不安になる。

さて、昨日から、「砂時計」の句を連続で取り上げた。というのも、紗希さんの句に特徴的な発想の飛び方や光の強さは、時間を超えているような、遠い記憶の中にいるような、そんな印象がある。それは、まさに「砂時計」のイメージとつながっている。