スカートを濡らして都草を摘む  神野紗希

俳句における物語性が語られるとき、そこには一種の奇妙さが存在する。それは、俳句の作中主体には作家自身と同一化されやすいバイアスがかかるのに対し、物語性を論じるときその主人公は虚構でなくてはならないからだ。そこに不可能は生じないけれど、どこかくすぐったい感じがこの議論には、ある。

俳句において虚構を成す、すなわち作家を「殺す」ためには、能動的、主観的な表現が有効だろう。掲句。「スカートが濡れている」のではなく、「濡らす」。客観的になろう、なろうとする俳句にとって、こういった表現はいわば本領ではない。本領ではないからこそ、この句は新しさをはらむし、この句の物語の主人公が一心に都草を摘んでいる姿が浮かぶ。きっと、俳句なんか全くもって知ったことではなく。

「小諸」(2012.8)より