のびをしてもとの姿勢にぶち兎  神野紗希

紗希さんは、俳句作家としての像が次第に固まりつつある人だといえるだろう。そんな作家が乗り越えなければいけないのは、まずは自分自身の過去の作品だ。たとえば、

ブロッコリー蒸したるのみの雪の昼餉 (「まずテレビ」(2013.2)より)

は、第一句集『光まみれの蜂』に所収の

燦々と画家の昼餉の桃一個

を少し思わせる。しかし、桃の句の場合は昼餉を取る対象が他者であり、作者が傍観者として存在しているのみであるのに対し、雪の句は昼餉を取るのが作者とも他者とも知れず、また「燦々と」という少しロマンティシズムに傾いた表現を取った桃の句と比べると、シンプルで対象をよく体に引き付けた引力のある句になっていると感じた。

ここからは僕の印象論になってしまうが、掲句は具体的な作者自身の類想を上げられないが、動物の描写を得意とする作者としてはたとえば

呼吸している蛇の胴の中

のような、生命と死という真逆のものを一句の中に同居させた紗希さんの句を読んだ時の驚きを記憶しているだけに、かわいらしい生命感を素直に描いたように思える掲句(「ぶち」の部分の描写の過剰性はこの場合欠点になりはしないか)には少し物足りなさを覚えた。真に恐ろしいのは、作者内における語彙の重複よりも、モチーフや読みぶりが以前の作品に比べて劣ることではないか。読者の過剰な無いものねだりなのかもしれないが、紗希さんには、もっともっと「攻めて」いってもらいたいと思う。

「ぶち兎」(2013.1)より