暑かろう馬の額をなでてやる  神野紗希

これまで紗希さんの句を読み解くキーワードとして、「個人的感情」「女性性」「客観性」「感情の共有(絵本の語り手)」「生命と死」「文語的」「幼さ」などを挙げた。これらからまず浮かぶのは、「少女」としての神野紗希像だ。多感で、夢見がちで、積極的な、少女。実際、少女性は紗希さんの句の中によくあらわれるイメージだ。

しかし、それは確かであると同時に、どこか上っ面な結論のような気が僕にはしてならない。なぜなら、紗希さんの詠む少女像にはどこか不思議な達観を覚えるし、なにより紗希さんは自分が少女であること/少女ではないことのどちらをも隠そうとしていない。

そう考えると、そんな少女を見守る存在としての、「母」という言葉を思いつく。もちろん自身を母として詠みこんだ句は表面上あらわれていない。しかし、この言葉を枕詞に紗希さんの句を考えると、掲句のような素直な優しさを詠んだ句が嫌味に見えてこない理由がしっくりくる。紗希さんはかつて少女だった自分を思い出しつつ、よく詠みこまれる題材である動物と同じく、愛すべき対象として作中主体を見ている。紗希さんの句の中の主体と客体は共に描かれる対象であるキャラクターとして存在し、それが不思議な物語性を句に生んでいる。そして、それが物語であるゆえに、紗希さんは作品の中で「少女」と「母」を往来しつつ俳句を作っている。

ここで、1日目の紗希さんのイメージとしての「国道」に話は戻る。僕にとって国道は都市と都市をつなぐ、人間の営みにとっての「過程」を象徴した存在だ。国道は、目的を持って通過すべきものでありながら、それ自体が「目的地」たることはない。紗希さんは「少女」と「母」を繋ぐ国道を何度も往復しつつ、途中で立ち止まって周囲の自然を眺め、俳句を作る。

そして。僕にとってのあの景色は、母が僕を生んでくれた日に恋人とむかし歩いた、空港へ続くあのながいながい一本の国道なのかもしれなかった。

「小諸」(2013.8)より