一人ゐる昼のトンカツ屋の水菜   江渡華子

この句を見て、「ああ、この感じ、華子さんだ」と思った。僕の中で華子さんは孤独なタイプの人では全くない。みんなと一緒にいて楽しく笑っている印象が強い。いわゆるリア充というやつだ。だけど、華子さんとこの句への僕の印象は不思議な一致を見せる。なぜだろう。
ひとまずその話は置いておいて、この句について語ろう。トンカツというと僕の中では小川軽舟さんだが(「俎に切るトンカツや春隣」「実のあるカツサンドなり冬の雲」)その世界とはまた違ったトンカツ像をこの句は見せてくれる。すなわち、「充実していないトンカツ」あるいは、「非リア食としてのトンカツ」とも言える。この句のトンカツは別に不味いわけではない。しかし、夜は若者でにぎわうトンカツ屋に昼間ひとりぼっちでいるとき、トンカツのハレの感じが逆に心躍らせてくれない。美味しいがゆえの悲しみ。イ音はどちらかというと静かな印象なので、句の中の主体のさびしさがより伝わってくる。音の上でも構成の上でも、テクニカルな句だ。
今後この10日間、はたして僕の華子さんのイメージがどのように変貌するか、自分でも楽しみにしている。

「ささくれ」(2013.02)より。