青饅やこの世を遍路通りゐる   森澄雄

作者は、青饅を食べているのだろうか。料亭か、居酒屋か。

外の見える窓があって、その硝子の向こうに、遍路が通り過ぎるのが見えた。そうすると、四国に旅していることになる。もしくは、青饅を食べながら、この世のどこかを遍路は常に歩いているのだ、というふうに、ふと思いをはせたというのでもいい。遍路は、ふだんの生活を送っている人に比べて、彼岸と此岸の境目をゆく者でもある。でも、彼らもまた生きてあり、「この世」のものなのだ。しかし最後に、「ゐる」という経過をしめす語を用いることで、いつかは「あの世」へと続いてゆく道であることが、示唆されてもいる。

  

外の芽ぶきの緑と、椀の中の青饅のみどりが、涼やかに結びついていて、その世界の中を通過してゆく、遍路の装束の白。青饅は、それが好きだという人の年齢や嗜好を指し示すタイプの料理だ。この句の主体がどんな人なのか、おのずとわかるような気がするところも面白い。

   

「古志」創刊200号記念号(2011年6月号)に、先日お呼ばれした座談会の内容が掲載されている。テーマは「季語と取り合わせ」、メンバーは村上鞆彦さん、日下野由季さん、主宰の大谷弘至さん。大谷さんは、実作に役に立つ、技法的な面を分かりやすく紹介して、「古志」の力の底上げをはかりたいみたいだった。掲句は、村上さんが、取り合わせの例として挙げた10句の中の1句。座談会の記事からはカットされていたけれど、この句についても、「なんで青饅なんだろうね」というところで、話が盛り上がった。

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