登山して下山してまた明日がある  筑紫磐井

なんと元も子もない句だろう。登山の行程や得た景色についてはノータッチで、「登山して下山して」あとは明日が来るだけ。これでは、まるで登って下りるためだけに登山したようではないか、と思ったが、実際、登山ってそういうところがあるのかも、とも思う。登山とは縁がなかったからわからないけれど。
だから、このあっけらかんとした感じ、曇りのない向日性が、登山の健やかさとつながるところもあって、肯定的に詠んでいるともとれる。筑紫磐井の句は、悪意なのか善意なのかよくわからない(どちらにでもとれる)ところがあって、その玉虫色のバランスが、彼の句の魅力だろう。
たとえばこういう句を素直に解釈できず、元も子もないと思ってしまう私こそが、ひねくれているのではないか、と。一句が鏡のように働いて、問いかけてくるような性格がある。

『我が時代』(実業公報社 2014年3月)より。