噴火して噴火のニュース見て夜長  江渡華子

昨日のつづき。「噴火」という事実があって、それが「ニュース」になった。そして、それを「見る」私がいた。 この句も動詞「見る」が効いている。

「噴火して」とは、実際に噴火しているところを見たということか、ただ噴火のニュースの前には噴火があったという事実からのものか。唐突すぎて意味が掴みにくいが、わたしは前者だと思った。地震や台風のとき、同じようなことがよくある。「見て」という一語で、この句の中心が一気に作中主体へと引っ張られ、それにより、噴火という縁遠く思われるものが、生活の中にあるものとして実感をもって立ち上がっている。妙に実感のある句だ。

引つ越しやワインボトルを下から見る 江渡華子

一方、この句の「見る」はちょっとよく分からない。何の為にしているのだろう。分からない。ただ、不思議なことに、慌ただしい引っ越しの中にふと訪れる静けさが、この妙な動きから感じられてしまう。

華子さんの句の中の主体の動きは、読者を惑わせつつも、楽しませてくれる。