カーブミラーに茅花あふれて旅の果  神野紗希

(スピカ「はつなつの音符」2015-6)

茅花は、春の季語だが、この句は、作品の並びの中で、初夏の終わり頃に置かれている。旅の果という遠いところまで来た感慨が、「あふれて」の措辞と相まって、光と飽和する感じがある。カーブミラーのものだか、茅花のものだか分からない煌きだ。
紗希さんの抒情には「遠さ」がある。遠くへ行ってしまう「風」も、遠くへ行くための「舟」も。「ここもまた誰かの故郷氷水」も、「誰かの故郷」と言いながら、呼応するように「自らの故郷」を意識させるだろう。室生犀星は、「小景異情-その二」で「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの~」と言っていて、「氷水」の句も、その抒情のほかではない。
『光まみれの蜂』にたびたび表れる「光」や「虹」。それらは、遠く、それでいて、いつか無くなってしまうもので溢れている。そんな「遠さ」を内包して、紗希さんの世界は煌いている。