産み終えておなかからっぽ春の波  神野紗希

(スピカ「岸辺」2016-3)

「光」や「虹」、「風」や「地球」。そんな「遠い」ものが、煌きを蔵して〝言葉〟にされるのに対して、世界を観測する中心点である〝自分〟を詠むときは、仄暗い。
『光まみれの蜂』の初めの方の句(高校生のころの作品と推定される)は、自らを、あるいは自らの内面を詠っているものが多い。「白玉や言わねばならぬことひとつ」「頑張れと言いたくて言えなくて雪」「目を閉じてまつげの冷たさに気づく」「寂しいと言い私を蔦にせよ」。どれも空洞で、底冷えするような仄暗さがある。「白鳥座みつあみを賭けてもいいよ」は、〝言葉〟として言い当てることに、自らのパーソナリティーの一部(もはや〝身体〟の一部といってもいいかもしれない)さえ喪失しても構わないというような、屹立する危うい矜持が見えたりする。どこか寂しい。
「コンビニのおでんが好きで星きれい」は、言語に対するこだわりの希薄な現代女性(女性とも限らないが、そう読まれることが多いので)のキャラクターではなく、まだ言葉になっていない、何とも言えない感情を、何とか〝言葉〟にするために、「好き」とか「きれい」という〝言葉〟を与えているのだと思う。そんなことで、「好き」とか「きれい」とか、ポジティブな言葉が並んでいるのに、言葉にし難い仄暗さが足元に満ちているような感覚を、感じてしまう。
取り上げた句には、もう仄暗さはない。「春の波」は、羊水の暗喩というより、寄せては返すゆるやかな時の流れ(平仮名で開いた「おなかからっぽ」をゆっくり読むように)と気分が主題だろう。