ゼリーの中桃の二片の触れあはず  藤田哲史

コンビニやスーパーで売っている市販のゼリーは、まさにこんな感じだ。容器の中は、桃の風味のゼリーで満たされていて、桃の果実がふたきれ、その中に離れ浮いている。「触れあはず」が、センチメンタルではあるが、ゼリーという現代的なものに、情感を与えている。

「澤」2011年10月号「澤四〇句」より。

ほかに、「澤」誌からいくつか。

且散るや掃かれ集り焚かれけり  高橋睦郎
サーファーの頭頭頭頭頭頭頭波を待つ  小澤實
鳴きそろふ蜩ふたつ谷の中   〃
冷奴布目顕ちたり醤油注せば  松園子
音楽や輝き増せる雲の峯  相子智恵

大野秋田氏の寄稿「助動詞「し」の完了の用法」が、とても面白かった。『日本語を知らない俳人たち』という本が出て、数年前に話題になった、過去の助動詞「し」の完了の用法。「し」を完了の意味に使うのが、誤用か、正しいのか、という議論だったが、大野氏は、「し」の完了の用法の歴史的用例を具体的に挙げ、「完了の「し」は、何百年にわたって使われ、近世以降は多くの偉大なる文学者によって使われた。誰がこの言葉の歴史を否定できるだろう。俳人や歌人は堂々と使うべきである」と述べる。以下、もう少しだけ、大野氏の文章から引用。

「文語文法=中古の文法」だけでは説明できない文法が今も作品の中に用いられており、それらは歴史のある文法であり誤用ではないことを俳人や歌人は認識すべきだと思う。『日本文法大辞典』は「文語文法」を「文語の文法。平安中期の和文の文法を中心とし、奈良・鎌倉・室町・江戸・明治以降昭和前期、各時代の文語文の文法」と定義している。中古の文法だけが文語文法ではないのだ。