悲しみの牛車のごとく来たる春  大木あまり

大木あまりは、比喩の達人だ。なんでそのような比喩を思いつくのだろう、と思うけれど、あとがきには「自然の事象を注視し素早く表現すると、比喩になってしまうのだ」とある。比喩は、工夫の結果の技巧ではなく、世界を感じたまま写し取ろうとするときに必然的に要請されるものなのだ。
牛車のようにくる悲しみとは、どのようなものだろうか。ぎしぎしと、荘厳さをもって、丹の色で、ああ、本当にかなしい。牛車といえば、雛祭りの調度でしか見たことがない。だからだろうか、春と置かれたことが必然に感じるのは。「雛よりもさびしき顔と言はれけり」もあまりさんの句だが、この牛車の句を読むと、いつも雛の白い顔が思い浮かぶのである。

刊行されたばかりの『シリーズ自句自解ベスト100 大木あまり』(ふらんす堂、2012年3月)より。あまりさんの自句自解を読んでいると、あまりさんがわたしだけに打ち明けてくれているようなひそやかさと、彼女が全身で体当たりで書いたのだというまっすぐさとが、ひしひしと伝わってくる。読み終わったとき、無性に、俳句が作りたくなっていた。

ちなみに、103ページの自句自解には、あまりさん直筆の猫のイラストが、文章のなかにまぎれこんでいる。ちょっとしたいたずらに、あまりさんとふらんす堂の山岡さんが、くすくす笑いあっている姿が浮かんでくる。