飯島晴子という俳人から受ける印象を一言で言い表すならば、「孤影の作者」ということになろうか。それこそ第1句集『蕨手』の巻頭から〈泉の底に一本の匙夏了る〉という孤独感を伴う作品で始まっている。他にも飯島晴子には〈旅客機閉ざす秋風のアラブ服が最後〉〈春蘭や男は不意に遺さるゝ〉〈肉声のぎりぎりとゞく青木の実〉〈襖しめて空蟬を吹きくらすかな〉〈おそろしく齢とつて栗林にゐよう〉〈月光の象番にならぬかといふ〉など、孤独の影を揺曳した作品がいくつも見られる。
また、この作者の作品におけるもうひとつの特徴としては、単に現実の形象をそのまま描くのみの手法とは異なる超常性を伴った作風であることが挙げられよう。例えば〈うすうすと稲の花さく黄泉の道〉〈別の死が夏大根のうち通る〉〈一月の畳ひかりて鯉衰ふ〉〈ぼろぼろの芹摘んでくるたましひたち〉〈天網は冬の菫の匂かな〉〈夏蜜柑別のひかりに人坐る〉〈かの后鏡攻めにてみまかれり〉〈石のやうにけむりのやうにわが狼〉〈もてなしの大狐火となりにけり〉〈八頭いづこより刃を入るるとも〉などといった作品を確認することができる。
おそらくこういった作品傾向は、本人の資質による部分も大きいのであろうが、それのみならず高柳重信や中村苑子あたりの作者からの影響が相当に顕著であったのではないかと思われる。飯島晴子の作品に見られる「たましひ」、「鬼」、「蛇」、「影」、「煙」、「肉」、「荒い」、「老い」、「怒り」、「墓」、「刃」、「骨」、「鏡」などといった語彙は、それこそ高柳重信とその周辺の作者達が好んで用いたものであった。また、型式内部における言葉と言葉の関係性から作者自身も予期しない景が立ち現れてくるという句作法も同じく共通している。ただ、飯島晴子の句には、前衛的な作風の作者にありがちな表現の脆弱さは概して見られず、やや過剰ともいうべき情念に端を発した言葉の迫力がまざまざと感じられるところがある。
平成2年(1990)刊の第5句集『寒晴』あたりから、徐々に空想性は薄れ、地上的で平明な作風へと向かってゆくこととなるが、それ以降の作品においても孤独な印象の強い句がしばしば姿を見せる。例えば〈螢の夜老い放題に老いんとす〉〈いつまでもかくれてゐたく萩青し〉〈初夢のなかをどんなに走つたやら〉〈昼顔は誰も来ないでほしくて咲く〉〈春蟬のなか置去りにされてゐし〉〈焚き足して誰もゐぬ浜焚火かな〉〈葛の花来るなと言つたではないか〉〈枯蓮最後まで手を出さぬこと〉など、その孤独感はやはり紛れもないものといえよう。
掲句は、第5句集『寒晴』収載の作品である。「凍蝶」の存在が描かれているゆえ、この句からもまた孤独感が多分に感じられる。ただ、それであってもこの「凍蝶」の羽に施された「天与の朱(あけ)」の鮮やかさは、なんとも強い印象を読み手の側に残すものといえよう。それこそこの「朱(あけ)」の色彩からは、「気高さ」さえ感じられるところがある。そして、さらにいうならば、この句における「凍蝶」の存在は、まさに「天与」の才に恵まれた飯島晴子という俳人の在りようをそのまま象徴しているかのようにも思われてくるところがある。
飯島晴子(いいじま はるこ)は、大正10年(1921)、京都府生れ。昭和34年(1959)、句作開始。昭和35年(1960)、「馬酔木」へ投句。昭和39年(1964)、藤田湘子の「鷹」創刊。同人として参加。昭和47年(1972)、第1句集『蕨手』。昭和49年(1974)、評論集『葦の中で』。昭和51年(1976)、第2句集『朱田』。昭和55年(1980)、第3句集『春の蔵』、第2評論集『俳句発見』。昭和60年(1985)、第4句集『八頭』。平成2年(1990)、第5句集『寒晴』。平成8年(1996)、第6句集『儚々』。平成12年(2000)、逝去(79歳)。平成13年(2001)、第7句集『平日』。