2014年12月9日

新宿に裏道多し焼藷屋

夏から秋にかけてはロシア文学ばかり読んでいたが、今は気分を変えて久々にホームズ物を読んでいる。読むにつけてもホームズのような人物は(19世紀の)ロシア文学には出てくるまいと思う。仮に出てきたら「西欧かぶれ」として描かれることだろう(彼はイギリス人なのだから仕方ないが)。ことによると『父と子』のバザロフのような扱いを受けるかもしれない。『シャーロック・ホームズの冒険』をロシア語訳で通読した時には気にも留めなかったが、今になって英語とロシア語の思考回路の違いを痛感している。
ホームズはニヒリストではなく至極ヒューマンではある。しかしわたくしの感ずる所によれば彼のヒューマニティとロシア文学のそれは異質なものである。ロシア文学にはロシアへの、祖国 отечество への、スラヴの「地」への愛がある。
一方でホームズにとって「イギリス」がどの程度重要であるかはよく分からない。もう少し範囲を絞って、「ロンドン」が彼にとって如何なるものであったかを考えてみても判然としない。寧ろハーディにとっての「ウェセックス」の方がロシア文学にとっての「ロシア」に近いようである。