【1】友よ我は片腕すでに鬼となりぬ  高柳重信

自分が人間ではない何かであることを、自覚したのは、多分三歳くらいのことだっただろう。自分と母には大きな違いがあることは分かっていたけれど、母はとても愛してくれていたので、私は自分におかしい部分があるとは思わず、愛されて当然の存在だと思っていた。
私には父がおらず、度々母が男の人を家に連れて来ていたが、私は男に紹介されたことはなかった。
何故なら、私は階段をまだ上ることができなかったからだ。一度上ることができたが、降りることができなくなり、それ以来上ることはしなかった。母は別に部屋に鍵をかけたりしなかったし、上の部屋に行きたいと言えば、抱っこして連れて行ってくれた。ただ、男のひとがくる時は、下にいなさい。来るんじゃないよ。と言われたから、そうしていただけだ。
その日、何故また階段を上ろうと思ったかは分からないが、母が家を出て行く気配があったのに、家にまだ誰かいる気がしたのだ。
上ると、階段は以前よりも一段一段高く感じられなかった。それでも、普段上らないからとても疲れた。上ってすぐには部屋がないので、多分お客さんが来た時用の部屋だろうと、少しその部屋を覗くとと、後ろから不意に肩を叩かれ、私は文字通り飛びあがった。
「あ、驚かしたか、すまん」
中肉中背のその男は、家に私がいることにさほど驚いた様子はなかった。
「お母さんは?」
「煙草を買いに行った。やめた方がいいとは言っているんだがな」
「おじさんは、誰?」
「まぁ、部屋に入ろう。少し寒い」
促され、部屋に入ると、男はこたつを挟んで私の反対側に座った。
「おじさん、私と一緒ね。目が赤い。それに、右手が大きくて爪も長い。お母さんとは違うね」
そう言うと、男はふっと笑い、「いくつだ?」と聞いてきた。
「四歳」
「そうか。四歳か」
その時、玄関で大きな音がした。母が帰ってきたのだ。
母は、私たちの話し声に気付いたのか、大きな足音をたてて、近づき、勢いよく部屋のドアを開け、ものすごく高い声で「ああああああああぁぁぁぁぁ」と叫んだ。その顔はとても白く、眼は大きく見開き、その声の大きさや鋭さ、すべてが私の知っている母ではなかった。その様子があまりにも異常だったので、思わず、男の方に近づいた。
母は、膝から崩れおち、その顔を両手で覆った。
「どうして・・・どうして・・・」
母は顔をあげることなく、そう繰り返していた。男は私に向き直って言った。
「お前は鬼なのだよ。鬼は段々姿形が人間に近づくけれど、自分の子供に会うと一気に鬼に戻り、すぐに寿命を迎える」
男はそこで、にっと笑った。歯が、ぎらぎらと光っていた。
「お前は女だから、自分の子に会わないのは難しいだろう。物理的にも心理的にも。男の私でも難しかったのだから・・・。いつか、こういう日が来ると思っていた。待っていた」
そう言って男は私の頭を撫でた。その手のごつごつしていること。
「長生きするんだぞ」
男の手は私の頬を撫でた。その手の冷たさが意外で、もう一度男を見た。男も私を見る。
「・・・おとう・・・」
言い終る前に男は倒れ込み、母の絶叫が部屋に響いた。

『山川蝉夫句集』(昭和55年 俳句研究新社)より。