2015年7月20日

秋でもなくて雲白し夾竹桃

あまりリモコンの話をしていないのでみなさんはお忘れかもわからないがエアコンのリモコンはまだ見つかっていない。この連載を始めたときに「見つかる前に熱中症になって連載中止オチ」などと朋友の凱君は言ったものだが、そろそろそれも冗談では済ませられない気温になってきた。大学の試験やらなんやらで電気屋に行きそびれていたのだが、今日ようやく時間ができたので行ってみた。電気屋のお姉さん(美人)はすぐに代わりのリモコンを出して来てくれた。引越しのときまでに見つかれば大丈夫だという。大喜びで帰宅してスイッチを入れた。しかしエアコンはつかない。電池は入っているしリモコンの画面も起動している。ただ本体が反応しない。調べてみると機種が違うらしかった。なんということだ。お姉さん許すまじ。次の授業の時間が迫ったおれはリモコンを置いて部屋を後にした。

自転車で大学まで急ぎながらもう夏だなと思う。入道雲を見るとそんな気になる。うっかりしていたがもうすぐ八月になる。

赤塚不二夫が死んだときのことをよく覚えている。2008年の8月2日。いまでもソラで言える。ちょうど夏休みで、家族でキャンプに行っていたおれは速報を聞かなかった。まだスマホを誰も持っていなかった。4日に帰宅して、いつも読んでいた漫画マニアのブログを開いたらそういうことになっていた。声を出して驚いた。そのまま自分の部屋に行って泣いた。会えなかったと思った。

ドラえもんが好きな子供だった。みんな好きだろう。ドラえもんを読み終えたちびっこには二通りの道がある。もっと難しい漫画を読むか、同じ作者の他の漫画を読むか。おれは後者を選んだ。キテレツ大百科やパーマンも読み終えたころになれば、どうやら藤子・F・不二雄というひとはむかし藤子不二雄を名乗っていたらしいぞと気づき、藤子不二雄Aの存在を知る。あとは芋づる式である。まんが道を読んで、手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫の名前を覚えた。

ずっと藤子・F・不二雄に会えなかったことを悔やんでいた。F先生が没したのは1996年で、1995年生れのおれはいちおう間に合っていた。0歳では会うもなにもないとは知りつつ、1996・1995の二つの数字を並べてみてはいつもため息をついた。

だから2008年の夏の落胆は言いようもなかった。12歳だったらどこかで会えたかも知れなかった。12年も同じ空気を吸っていながらまた会えずじまいになってしまった。無力を感じた。もっとも赤塚はもう長い間ずっと意識不明だったのだが。

7日の告別式を覚えている人がいるだろう。弔辞を読んだ一人にタモリがいた。長い弔辞だったが、ノーカットで流したテレビ局もあった。手元の紙は白紙。勧進帳だったのだ。みんなびっくりした。そんなエピソードを始めにして、2008年の夏のメディアはずっと赤塚不二夫の名前を呼び続けた。8月いっぱい、どの新聞、どの雑誌を買っても赤塚のことが書いてあった。おれは夏休み中、本屋に通ってそれらを集めて回った。近所に大きな本屋がなかったので、自転車でどこまででも行った。だから赤塚不二夫の死には何度も自転車で飛び出していった炎天の記憶がついてまわる。

忌日俳句に季感がないというのは嘘だ。

ずいぶん後になって俳句を始めた。忌日俳句というのがあると知ってたくさん書いた。歳時記に載っているようなのはあまり書かなかった。漫画家とか、作家とか、芸人とか、そういうのばかりだった。子規だとか虚子だとかはよく知らなかいが、赤塚不二夫のことならたくさん知っていた。忌日俳句とはそのような人をうたうのだと思った。入りたての「里」に毎月だれかの忌日の句を送った。会ったこともなかった島田牙城は毎月それを載せてくれた。

くるったようにそんな句を書いていた。それはおれにとってひどく切実な行為である気がした。その人の忌、と書くことでおれはその人と接続した。俳句を始める前からそうだった。8月2日が来るたびに赤塚不二夫のことを思い出して日記に名前を書いた。その人がこの世にいない現在は、そのようにして過去と接続した。赤塚不二夫と書くことで、赤塚不二夫がいたときのことは想像できた。

今年の冬に長野で島田牙城に会った。雪の降る夜で、中山奈々も佐藤文香も田中惣一郎もいた。直前の「里」におれは20句を載せてもらっていて、そこに石ノ森章太郎忌の句があった。それを指して牙城さんは「そんなもん、いつかわからへんやろ!」と言った。季節が分からないのでは読者が困るのだという。次からは前書に日付を書いておいてくれ、と牙城さんは言った。

別に日付があってもよかったが、ことさらにつける必要は感じなかった。石ノ森章太郎忌が1月28日であることが分かればたしかに読者の助けにはなるかもしれない。しかしおれはそのような「1月28日」を手掛かりとするような俳句の読み方に一抹の安易さを思わないではなかった。日付を手掛かりとすることで分かる景色はあるのでそれを否定するのではない。ただそのような読み方を択んでしまう態度それ自体が気がかりだった。

自分の句を引き合いにだすのもかたはらいたいので、別の本から持ってくる。

富安風生監修という『慶弔俳句の作り方』(昭和47年/文芸出版社)。作り方とは銘打っているが文章は初めの方に3頁あるだけ(署名がないが風生のものだろうか)であとはえんえんと慶弔俳句が分類・列挙されている。詳しく調べていないのでなんとも言えないがちょっと変な本で、どういう事情で成立したのかまったく書かれていない。挙げられている句には作者のほか所属結社も併記されている。出版に際して公募したのかと思うが、白虹、青邨、草田男、圭岳といった名前も見える。結社誌から採集したのであればたいへんな労作である。

たとえば「追善」の章にあるこの句などはどうだろう。

林譲治、大野伴睦氏
花咲けば鯣児忌散れば万木忌 中火臣(若葉)

林・大野はともに政治家でありつつ俳句を書いた人物。もっともおれの知識の範疇にあるのはそれくらいで、彼らが「鯣児」「万木」と号していたこと、彼らの忌日が花の時期にあったことなどは知らない。まして「若葉」にいたという中火臣がこの二人とのいかなる関わりにあって〈花咲けば鯣児忌散れば万木忌〉と詠むにいたったのかなど存ずべくもない。ただ二つの忌日が花の時期に隣り合うことを言っただけのこの句を分からないと切り捨てるのは簡単かもしれない。しかし中火臣にとってその事実はこうして一句に書きつけなければならないものだったのである。接続助詞「ば」の連続には、花が咲いて散るまでの短さを気ぜわしく思っている作者が見える。その気ぜわしさの中に生じた動揺は作者に「鯣児」「万木」と二人の名前を呼ばせたのである。この人が彼らの名前を呼ばなければいけなかった事態の切迫にたいする想像力がおれたちにはあっていい。「鯣児」「万木」がどのような人であるかなどという事実関係を知らずとも、いや、知らぬほどに、そこへ向けられる想像力は注意深いものになる。分からないということは想像力になる。

8月2日の日記に赤塚不二夫と書きつけたときのことを思う。俳句とはそのような種類の想像力で書くのだと思う。その想像力は、日付もなく、名前も知らぬ誰かの忌日にたいするそれと同質の筈である。おれはこのような意味において俳句は倫理的だと思っている。

つまらないことを書いた。俳句を書いている人間の日記に俳句のことが書いてあったらひくだろう。もっとくだらないことを書こうかと思ったがメモに溜めてあったネタが切れてしまった。もう一個、おっぱいに関する話があるのだがそれもどうかと思った。クロイワさんが教えてくれた下ネタブログ(エロサイトと呼ぶまでもない低次元なブログだった)を読んでいたらおっぱいを詠んだ俳句が出てきたという話である。あまりに面白かったのでいまでも思い出して笑う。これを書いたら女子に嫌われるのではないかと思う。でもここまで書いてやっぱり書きたくなったので書く。ブログは巨乳を夏の季語に認定しようという提案から始まる。ブログ主はその案を「公益社団法人日本エロ俳句協会」に申請する。結果、申請は通り、「巨乳」は夏の季語として正式に認定される、というのが話の筋である。ここでブログ主が嬉しさのあまり詠んだ一句が紹介される。〈夕立ちや 巨乳の下で 雨宿り〉。

おれは衝撃を受けた。「で」にはこなれなさを感じたし、なにより巨乳が季語なら季重なりじゃないかと思ったが、それを差し引いても妙に俳句らしかった。学校の授業か何かで習った程度でこのような俳句の型が身につく人も稀な気がした。雨宿りができるほどの巨乳という奇想にも驚いた。おれはFacebookのメッセージでクロイワさんにこの句を示し、「巨乳の下の、としたらもっと即物的になるんじゃないですかね」と言った。クロイワさんは「俗物的じゃw」と言った。