まえがき

 僕がとりあげるのは各種のサークル、あるいは人と人とのつながりのなかでつくられた俳句である。より具体的に言えば、僕がとりあげるのは職場や療養所などで行われる句会の記念句集や合同句集の、あるいはそのなかで生まれた個人句集の類であり、したがってそのほとんどが無名の書き手による句になるはずだ。僕はいわゆる「俳句史」に登場する人物の句をとりあげるつもりもなければ、埋もれてしまったすぐれた書き手を再発見するつもりもない。また僕は文化史や生活史を書こうというわけでもない。僕はこれから、俳句表現だけではなく俳句を書くという行為それ自体をとりあげつつ、「俳句」について考えてみようと思うのである。

 まだ大学生のころ、ある人と阿部完市の話をしていたときに、阿部とかかわりのあった西村白雲郷に関するこんな話を聞いたことがある。

 その人の母親は俳句が趣味だったという。いわゆる専業主婦だった彼女はふとしたきっかけから白雲郷が指導する月例句会に出るようになった。白雲郷はいつも句会に来るわけではなく、だから彼女は白雲郷が来るときにはきまって「先生」が来るのだと言って特別にめかしこんでいたそうである。彼女が句会に行くのは、もちろん俳句が好きだったからにちがいないが、むしろ、句会という場においては他者が自分の名を―それも名字ではなく下の名を―呼んでくれるということに何より得がたい喜びを感じていたためであった。彼女はすでに亡くなってしまったが、生前にはこの句会に出ることだけが楽しみで、一冊の句集も遺したという。

 おおよそこうした話をした後でその人は言った。―あなたは彼女のことをどう思うか。

 僕は返事に困ってしまった。そのころの僕は、川名大の『新興俳句表現史論攷』に感激し、あるいは高柳重信の編集する『俳句研究』のページを繰ることが何よりの楽しみなのであった。そうした僕にとって、彼女のような書き手は「なかったこと」になっていた。僕にとって、俳句に携わる者は俳句形式に自覚的に向きあう者でなければならなかったし、そうした人間がようやく触れえた表現のなかに「俳句」なるものを見出すことが僕たちの仕事だと思っていたのである。そして僕はそのような書き手と読み手との美しい関係を想起することで、かろうじて僕なりの美しい「俳句」を夢見ることができた。だから彼女のような書き手は、ともすれば堕落した人間として僕の目にうつった。僕の夢のなかにはそのような人間は必要がなかったし、さらにいえば、そのような人間がいては都合が悪かったのである。

 このような選別はおそろしいことだ。べつに俳句表現史を志向する営みがいけないのではない。「俳句史」を俳句表現史として書きなおそうとすることは、「俳句」とは何かということを考えるうえでも至極真っ当なことだ。だがその正しい営みは、それでもなお「俳句」の姿を明らかにするための方法論としてなにか大きな欠陥をもってはいなかったか。俳句表現史であれ、俳壇史であれ、「俳句史」の編者はいつも「俳人」を相手にしてきた。そして彼らのいう「俳人」とは、結局、俳句形式によって書き得たもののなかに、ついに自らの「俳句」を見届けることができた者のことなのであった。その意味では、たとえば高屋窓秋を「俳人」と呼ぶことはありえても、先の母親を「俳人」と呼ぶことはありえないだろう。だからあの母親は決して「俳句史」に書かれることがない。だがそれは「俳句」の一面を書いているにすぎないのである。

 僕がこれから書こうとしているのは、たとえば高屋窓秋とあの母親とが同時に並び立つような世界を夢見るための長い序章のようなものだ。僕は、この両者のどちらが欠けても成り立つはずのない「俳句」の、至極当然の姿を描き出そうと思っている。

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