【1】わが驛の花からたちを君知れり     伊藤慈風人

『国鉄文学叢書第二輯 国鉄俳句選集』(平山三郎編、日本国有鉄道厚生局気付国鉄文学会、一九五四・八)の一句。同書は「国鉄部内において活発な作句活動をつづけてゐる作家の近詠で、すべて自選作品」を収めたアンソロジーである。九一名の作品(一人一〇句・タイトルを付す)が作者名順にならぶ(ちなみにこの選集には若き日の藤田湘子の名も見られる)。略歴によれば、慈風人は名古屋鉄道管理局厚生課に勤め、はじめ「十五風」と号したという。『国鉄俳句選集』に作品を寄せている者のなかには慈風人に俳句の教えを受けた者もおり、同書の書き手なかでも実力者の一人であろう。

この作品には「大鉄車掌岩津風花氏に「十五風勤むる駅 花枳殻」の句あり風花氏には未だ会はざれどなつかしくて。一句。」の前書が付されている(句の一字空けは原文のまま)。大鉄は大阪鉄道株式会社のこと。この句における「花からたち」とは、「驛」を「わが驛」と呼ぶ者が遠く「君」へと呼びかけるときに、「わが驛」にかつて降りたった「君」の痕跡のようなものとして想起するものとしてのそれではなかろうか。だからこの句には何も書かれていないともいえる。僕たちがかろうじて知りうるのは、彼らの呼び掛け合いという行為そのもの、あるいはその痕跡だけではなかったか。そしてその意味で、この句は『国鉄俳句選集』やそれに集った彼らのいた場所のありようをきわめて純粋に示しているように思う。俳句を詠み、読む行為を通じて「会はざれどなつかし」き思いをしていたのはひとり慈風人だけではないだろう。そのようなゆるやかなつながりは、実はさまざまなレベルにおいて起こっていたのではなかったか。

たとえばこの句集が刊行された翌年に『鮎川信夫詩集』が刊行され、金子兜太が『少年』を上梓したことを想起してみる。彼らが自らを語る言葉をもち、そして自らの言葉をまとめるためには、一九四五年以後の一〇年近くの歳月が必要だったのである。一方、『国鉄俳句選集』巻末に付された略歴をいくつか挙げてみよう。

 池田若菜 鹿児島機関区。廿一年シンガポール刑務所に抑留中作句を始め、翌年夏復員後、竹内夏竹詩に師事、廿七年松の花同人。現在若葉により富安風生先生の指導を仰ぐ。

小林松風 陸前原町駅。十八年満鉄在勤当時、三浦竹雨先生(ホトトギス)の指導を受く。帰国後「初雁」「俳句饗宴」誌友を経て「好日」同人となり現在に至る。

田中秋人 富山駅。太平洋戦争が私に俳句を与へてくれた。南溟の孤島の明け暮れ、空虚と絶望から立上がつた。現在金尾梅の門主宰「季節」同人。

鮎川や金子が一九四〇年代に続くそれとしての一九五〇年代を生きていたように、彼らもまた同じ時代を生きていたのであった。同書には「兵靴捨て切れず上半身は裸」(内田青花)「すみれ咲く焦土の祖國生きて踏む」(澤田月亭)もある。編者の平山三郎は後記で「国鉄のやうに全国に職場を持つところでは、かやうな選集をつくることが中々困難である」と書いているが、結社も勤務地もちがう彼らが自らを語るその言葉がまぎれもなく同時代のそれとして提示・享受されてゆくとき、そこからは、彼らの物語めいた何がしかが立ちあがってくることに気がつく。彼らが紡ぎだすのは、たとえば記憶と称されるような物語だけではない。「貧農が死すせめてもと虹濃ゆし」(祝田猪一郎)「風邪の貧農寝床に藁を厚く敷く」(遠藤蕉魚)などを読むとき、「貧農」という言葉がまだ身近にありえた彼らの生活にあって、それを語る彼らの行為が、その都度その語りの典型性を担保していたように思われるのである。

そして極端なことをいえば、僕には、そのような典型性は時代の気分のようなものとしてゆるやかに共有されていたのではないかと思われてならない。じっさい、「野分中點火機關車に誰も居ず」「傷つく蟹線路越ゆると野分満つ」「訃にいそぐ前照燈へ雪きたる」(荻原水郷子)などは、鈴木六林男が「吹田操車場」を書いた時代状況がいかなるものであったかということをよく示していると思う。ただ、僕は先の水郷子について、彼の営為が六林男の手になるこの名高い連作を生むための犠牲であったなどといいたいのではない。僕には、「吹田操車場」と先の三句とがゆるやかにつながっているということ自体に何かしら犯しがたい意味があると思われてならないのである。犠牲などという言葉はまっぴらだ。たとえ結果としての俳句表現が捨て石であろうとも、それを生みだすための営為は捨て石ではない。