【5】相思樹よ 茂れいつかは 万緑に     馬杉二三子

 『D・K』第五号(鶴川団地文芸クラブ、一九八〇・一二)所収のエッセイ「沖縄へ行って =過ぎし年のこと=」の一句。『D・K』は東京都町田市にある鶴川団地住民による「団地文化誌」である。表紙に「文芸・評論」とあるように小説・詩歌のほかに鶴川や町田に関するエッセイが掲載されている。第五号の執筆者三六名のほとんどが団地住民であり、カットの制作や編集委員も団地住民が務めている。今回とりあげる第五号では鶴川俳句の会を特集しているが、鶴川俳句の会もまたこの団地内に生まれたサークルのひとつであった。

  昭和四十五年二月、六丁目自治会文化部の、サークル活動として、鴇沢、星野両氏の発起で、鶴川俳句の会が誕生しました、以来 和光大学教授佐伯昭市先生の御指導のもと現在に至って居ります。途中退会された方々または当団地を転出された方々もありますが、現在、十一名で句会を形成して居ります。(「春夏秋冬」)

ここで指導者として名が挙がっている佐伯については現代俳句協会のウェブサイトに川辺幸一による次のような紹介記事がある。

佐伯昭市(1927~1998)は俳人であって、俳文学者である。東大大学院に在学中の1955年同人誌『炎群』を発刊するも、1970年自説の実践集団として俳句結社「檣頭の会」を創設し、俳誌『檣頭』を創刊する。自説とは「俳句はつくる意識の基に、言葉による構築物でそれ自身独立した存在」というのである。1951年『暖流』(滝春一主宰)に「造型俳句論序説」を発表、『俳句往来』(古川克己編集)、『東大俳句』などに「造型俳句論」を展開する。この発想の基は芭蕉・蕪村の研究から得たものであろうが、新興俳句や人間探究派の台頭があったものの根強い花鳥諷詠の風潮に一石を投ずるものであった。http://www.gendaihaiku.gr.jp/column/view.php?act=detail&id=236

ここでいう「造型俳句論序説」とは金子兜太の造型俳句論とは別のものであり、兜太のそれよりも早い時期に発表されたものであるが、同様の名をもつ俳句論が存在することは兜太の造型俳句論が生まれた当時の時代状況がいかなるものであったのかを図らずも示唆していよう。ちなみに、『D・K』第五号にも佐伯の俳句評論が掲載されているが、そこにも佐伯の提唱していた「造型俳句論」の一端を垣間見ることができる。佐伯は野田誠の「日暮粉ナ雪峠道身は斜かな」に対する阿部青蛙の読みへの違和感を表明しつつ、次のように述べている。

「粉ナ雪」といい「峠道」という場合に、たとえそれが造型的構築をとったとしても、そのような具体的、具象的イメージを結合させれば、それを見ている目、つまり作者の存在する場合をも、その二つのものと同時に設定して考えるのが普通である。だから「身」は作者自身か、作者の目に映じた客観的存在か、その何れかでなければなるまい。俳句はそういうものとして存在してきたし、そこに伝統の一面がある。

そして伝統の他の要素を受けつぎつつ、観念や抽象化によってのみ構築された、俳句の世界もまた存在するであろう。そしてそれはそれなりに、別の理解も可能である。現実化しうる表現を、その作品自体が持ちながら、現実化した解を否定し、遠ざけるのは、不遜である。(「俳句解釈の原点」)

佐伯はいわゆる「前衛俳句」とも花鳥諷詠とも異なる自らの俳句表現や読みの方法論を模索していたようである。佐伯のような書き手の存在は、戦後の俳句史をたとえば「前衛」と「保守」とに二分してしまうような想像力の貧しさを教えてくれる。

さて、『D・K』の特集では春・夏・秋・冬の四章立てで佐伯をふくめ一六名の俳句を掲載している。概して団地内外の生活が率直に表現された句が目立つ。

春光の捨船洗い続ける海                      佐伯昭市

子等叫ぶ団地に小花火こだまして                  上田四郎

紺ゆかたしばし明治の女となる                   高木さだ

逃げた亀の絵が掲示され朝涼し                   高木勝秀

木枯や蒟蒻辛く煮て待ちぬ                     杉山静

さて、表題句はこの俳句会のメンバーの一人でもあった馬杉二三子が同号に寄せたエッセイ「沖縄へ行って =過ぎし年のこと=」のなかに収められている。エッセイ冒頭には次のように書かれている。

  毎年、S新聞社で、母の日にちなむ行事として、(にっぽんのおかあさん)を、企画募集しますが、私こと五十二年度(第十二回)に当選し、その招待旅行に、参加して沖縄へってまいりました。

また冒頭で「これは実家の母、ならびに近しい者や、親しい友達に、報告のつもりで綴った、その時の記録です」と断っているように、エッセイの合間に俳句を挟み込みながらたどたどしささえ感じさせる調子で沖縄旅行が綴られていく。表題句が登場するのは沖縄滞在二日目の戦跡巡りのなかでひめゆりの塔に訪れて植樹を行った場面においてである。

苗木は相思樹でした。南部一帯は土質が悪く、植物の成育が良くない、と聞いた私は、それが、軍・民併せて廿五万人にも及ぶ、犠牲者の怨念とも思われて、
相思樹よ 茂れいつかは 万緑に
と叫ばずにはいられませんでした。

いったい、自らの「叫び」をこのように定型詩へと転じていく心性とはいかなるものであろうか。馬杉はまた、平和記念公園を訪れた時のことを次のように書いている。

私は、亡き兄が合祀されている静岡県の碑を探して、独りその前に佇みました。
いしぶみに刻まれた字を
〝魂は 富士につながる いついつまでも〟
と辿った私の脳裏に、今年の正月、宮中における歌会始に、高らかに映じられた、姉の歌が浮んでいました。姉は〝海〟と言う御題に、弟を偲んで、
〝ソロモンに つゞくこの海 凪ぎわたる
鷗となりて 還れ弟〟
と、遠州灘に向って、呼びかけたのでした。テレビを喰い入るように視ていた時の感激が、突如、甦えった私は次に兄を想って作った自分の句を、自然に吟じていました。
貝風鈴 海底に城 ありぬべし

馬杉が「自然に吟じていました」というとき、その「自然に」という言葉にこそ注意すべきだろう。静岡県の石碑や姉の詠進歌を前に自らの句を「自然に」吟じていく馬杉の姿には、「にっぽんのおかあさん」に姉妹四人で選ばれたことに「これでやっと、肩の荷が下りました」と喜ぶ者の、その幸福の性質がうかがわれる。そしてまた、そうした自らの幸福のありようについて省みることのない彼女の性質が、彼女自身のいかにもたどたどしい文体とともに提示されるとき、僕は馬杉の正直さ誠実さへの感動がいつのまにか作品の内容への感動へとずれ込んでいくような気がしてそら恐ろしくなるのである。たとえばこの文章の冒頭に据えられた「これは実家の母、ならびに近しい者や、親しい友達に、報告のつもりで綴った、その時の記録です」という一文とともに表題句やその前後の文章を読むとき、僕はその表現に安易さに違和感を覚えることがないだけでなく、むしろその稚拙さをこそ愛してしまうかもしれないのだ。

鳥羽耕史は一九五〇年代のサークル詩における「へたくそ詩論争」を紹介しつつ「へたくそな詩がうまくなるということは、望まれる詩形への自己同一化を遂げていくということであり、そこには専門詩人ではない民衆の「生の声」のリアリティとの二律背反があった」と述べている(『1950年代―記録の時代』河出書房新社)。僕のそら恐ろしさの淵源は「へたくそ」を前提に提示される表現に僕自身が「民衆の「生の声」のリアリティ」などというものをうかつにも期待してしまう不用意さにあるのだが、読み手としての僕のそのような期待が傲慢さやファンタジー性を帯びていることは言うまでもない。しかしながら、それでも僕は馬杉の文章や俳句がそのような期待を背負ってこそ輝くものであるように思われてならない。というよりも、このような期待を前提として書かれたのが「相思樹よ 茂れいつかは 万緑に」の句であり、「万緑に」「茂れ」というような表現の重複や説明的に過ぎる表現の見られるこの句の価値とはそのように考えることではじめて見えてくるものではあるまいか。そうでなければ、馬杉の表現行為は俳句形式のいかにも安易な利用として批判されるばかりだろう。だから、「へたさ」を前提にしたときに生まれるファンタジーを必ずしも批判するには当たらない。そのファンタジーを書き手が志向することが―「民衆の「生の声」のリアリティ」などというものをうかつにも信用しつつ書くことが―自らの表現行為の切実な部分を支えているということもあるのだ。だから僕にはそのファンタジーのなかにうかつにも溺れつつ読む行為もまた至極真っ当なものであるように思われるのである。