澁谷静江編『紅魚』第一号(宮崎県立宮崎高等女学校、一九三一)の一句。同書は宮崎県立高等女学校の生徒及び関係者による詩文集である。巻末の「をはりに」では『紅魚』創刊の喜びが次のように語られている。
宮崎県立宮崎高等女学校は、一八九六年に開校された宮崎町・大淀町組合立宮崎高等女学校が数回の改称を経るなかで一九一八年から一九四三年までの間用いられた名称である。『紅魚』は学校関係者九名による短歌のページを冒頭に据え、「歌集」「俳句集」「詩集」と在校生のアンソロジーが続く。にもかかわらず巻末に「いつからか心にかけてゐた歌集がやつと出来ました」と書かれているのは、あるいはそれだけ短歌の比重が大きかったということであろうか。実際、俳句は「蒼穹」と銘打たれたわずか一三ページの「俳句集」の章に全学年の作品がまとめられているのに対し、短歌は全一五〇ページからなる『紅魚』の実に半分以上のページ数を占め、さらに歌集は「青淀」「海原」「眞砂」「櫻貝」と学年別の作品集として構成されている。しかしこのような短歌重視の傾向は高等女学校の性質上当然のことであったろう。
高等女学校で人生の一時を過ごす女子学生をとりまく世界は、一方で西欧モダンの香りを漂わせ、他方で、良妻賢母主義に代表される女性役割の習得が必須とされていた。また、学問的知識を伝達する場である学校は、中以上の社会階層との重なりをもっていたため、学校で説かれる女性役割には階層的な文化が反映していた。
(略)伝統的世界における中・上層の女子にとって必要とされるのは「たしなみ」とよばれる教養の世界であった。和歌、習字、手芸、琴、生け花、茶の湯など多分に伝統的な技芸に属する領域であり、これらは決して女子のだれでもが触れることができるわけではなく、きわめて階層的な性格の強いものであった。前近代からの、生産労働に従事する必要のない女子の「たしなみ」、いわば「教養」であった。それは近代に入っても、容易に消滅するものではなく、モダンな近代学校に通う女学生にとっても必要とされる世界であった。(吉田文「高等女学校と女子学生」『近代日本文化論8 女の文化』青木保他編、岩波書店、二〇〇〇)
戦前の俳壇が男性優位社会であり句会にも女性の姿がほとんど見られなかったこと、そしてまれに女性が出席することがあると周囲から好奇の目で見られたことは長谷川かな女をはじめ多くの女性俳人が回顧するところだが、短歌の場合―たとえ歌壇が男性優位社会であったとしても―一定以上の階級の女性においてはこのように「たしなみ」として和歌と触れる機会があったのである。そしてこの「たしなみ」の一部には作歌も含まれることがあった。吉田文は兵庫県多紀郡立実科高等女学校に在籍した一女学生が三年生と四年生の間に記した『修学日誌』を紹介しているが、たとえば一九一八年九月六日の項には「作文の時間和歌のつくり方を教はりました。新井先生の時間は和歌を沢山うつさせて戴きましたが興味深いもの御座います」とあり、また日誌の片隅に自作の歌が書きつけられていることもあると指摘している(前掲「高等女学校と女子学生」)。
さて、ここで『紅魚』に収録された在校生の短歌をみてみよう。
青々と葉のみ茂れる庭の木の上をとびかふ赤とんぼかな 中島美津子
手洗にとまりしとんぼとび去りて水面しづかにゆるゝなりけり 舘山シゲ子
ミシン縫ふ手を止めてみる窓のべに二匹のとんぼたはむれをれり 日高よし子
赤とんぼとまりてゆらぐ鶏頭の葉末も既に紅さして 中原京子
赤とんぼ蓮の上に群れとびて池の面寒く秋更けて行く 宮本露子
中島は一年、舘山が二年、日高と中原が三年、そして宮本が四年生である。この五首はいずれもとんぼを詠みこんでいるが、中島が庭木の上を飛ぶ赤とんぼのみを素朴に詠んでいるのに対し、舘山は手洗から飛び去ったというとんぼの動作だけでなく残された水面のゆらぎを捉えており、やや変化のある詠みぶりになっている。このようにとんぼだけでなくもうひとつの情景を展開させてゆくのは日高、中原、宮本の歌においても同様であるが、たとえばここに、彼女たちの作歌のリテラシーの一端をみることができよう。
一方の俳句はどうだろうか。俳句の場合とりわけ興味深いのは、学年順にならぶこの俳句集のうち、学年の低い者の手になる句に非定型句が多くみられることだ。これは同集に寄せられた短歌のほとんどが文語定型をなしているのと対照的である。ただしそれらはまったくの非定型というわけではなく、各々が独自に音数律を意識した結果としての非定型であるように思われる。たとえば「藤浪の下で日傘たゝんだ」(森田利子)「桐の葉に吹く風も秋です」(高山郁子)などは七・七で構成されているし、「月見草月が出てぱつと咲き」(有馬キヌ)「朝きりの立ちこめて山の里」(河野丕)「ひらひらと小鳥にいてふの葉」(甲斐キヌ子)などは中七以降を崩すかたちになっている。非定型による句作がおそらく意図的なものであったことは、たとえば前掲「ひらひらと」の作者である甲斐キヌ子が同集に「年のくれ餅つく音にめがさめた」という句を寄せていることからもうかがえるが、これは甲斐にかぎったことではなく「こつこつにはとり餌を拾ふ音」「そよ風にころび出でたる虫の聲」の二句を寄せた緒方照代、同じく「秋空をすいすいと飛ぶ赤とんぼ」「雪だるま陽にやせてゆく」の二句を寄せた岡田節子などにも同様の態度が見られる。
ちなみに、「秋空をすいすいと飛ぶ赤とんぼ」と詠んだ岡田は一年生であったが、他学年のとんぼの句と比較してみよう。
わんぱくの兒らの遊びやトンボ取り 古市富美
赤とんぼあたまかしげてとまつてる 山本アヤ
生靈まつり生靈とんぼも飛んでゆく 原笹子
夕立はれたアンテナのとんぼ 都築ハナ
古市、山本、原が二年、都築が三年生である。短歌に比べると俳句という表現形式をもてあましているようにもみえる。
さて、表題句の「帯解けば子猫まつはる日南かな」だが、これは三年生の葛西アヤの句である。一読、彼女と同じ時代を生きていた杉田久女の「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」と語彙が似ているようだが、描かれたものはまるでちがう。そして僕にはこのまるでちがうということが、なにかとても重要なことを示唆しているように思われるのである。
ろまんちっくであり、せんちめんたるであるということが、女流文学の一つの特徴であることが、女流文学の一つの特徴であることは、日本の短歌文学では事実であった。だから短歌の質に、そうした立場を持たぬものが有力になって来ると、女性の短歌文学は衰えて来るわけである。(略)
新詩社が昇る旭の如く栄えている間に、真に徐々として、潜勢力を蓄え、「明星」が四十一年百号に達すると共に解体したその時、これに替って出現して来たのは、万葉を準拠としていた正岡子規の根岸派である。これが、「馬酔木」を経て「アララギ」になった。(略)ろまんちっくでせんちめんたるなものが、極度に排斥せられて来たのが、明治・大正更迭期以来、昭和二十年・二十一年に到るまでの、長く久しいアララギ時代である。写生歌時代である。(略)
女性の短歌は、写生歌時代にも行われていた。だがそれはただ婦人が作っている歌というに過ぎない。つまり男性の歌の口うつしに過ぎなかった。(傍線は原文。『婦人文庫』一九四七・三※引用は『歌の話・歌の円寂する時 他一篇』岩波文庫、二〇〇九)
折口はまた同時期に釈迢空名で「女流の歌を閉塞したもの」(『短歌研究』一九五一・一)を発表し同様のことを述べているが、折口が「男性の歌の口うつしにすぎな」いと批判した「写生歌」は、『紅魚』においても大勢を占めるものであった。思うに、葛西の句はこの「写生歌」の延長線上に生まれたものではなかろうか。そもそも定型と非定型が混在する(そして「歯が痛いと云ひつつ飴を食べにけり」(山本千代子)のような無季の句さえ少なからずまじっている)彼女たちの俳句集を見るかぎり、当時俳壇で最も大きな勢力を誇っていたはずの『ホトトギス』からはかなり遠い場所で俳句を詠んでいたように思われる。その一方で写生句が多いのは、彼女たちにとって最も近しい短詩型文学であるところの短歌の方法を俳句に持ち込もうとしたためではなかっただろうか。「たしなみ」としての和歌を知る高等女学生が俳句を詠むということは、たとえば葛西のそれのような句を詠むということではなかっただろうか。
このようないわば「たしなみ」としての俳句が久女のそれと異なるのはいうまでもない。そして、葛西のそれのようなそれまでの俳句表現を何ら更新することもない句が「俳句史」に登録されないのも当然であったろう。しかしそれでも僕にとって気がかりなのは、そのような俳句表現史としての「俳句史」が結局「俳句」の一面を捉えるのにとどまっていることである。そもそも、葛西の「俳句」が久女のそれになれなかったのと同じように、久女の「俳句」もまた葛西のそれにはなれなかったのではなかったか。
『紅魚』の俳句にかぎらず、俳句表現史の大きなうねりとはまるで縁遠い場所でつくられた俳句はきっと無数にあったことだろう。奇しくも『紅魚』が創刊された一九三一年は水原秋桜子が「自然の真と文芸上の真」を発表し『ホトトギス』を脱退した年であったが、たとえば一九三一年の「俳句」を秋桜子の行為をもって語ることはどこまで正しいのだろう。一九三一年の「俳句」は決してそのようなものではなかったはずである。