【8】さそり座の尾の一げきに流れ星     村上克美

楠本憲吉・炎天寺編『句集・ちいさな一茶たち』(グラフ社、一九八八)の一句。足立区にある炎天寺では一九六二年から「一茶まつり」が行われているが、その翌年から俳句大会をはじめ現在も「一茶まつり全国小中学生俳句大会」として継続されている。本書はこの俳句大会の二五周年を記念して刊行された作品集である。区内の学校からの三〇〇句ほどの投句から始まったこの大会だが、一九八八年に行われた第二六回大会では投句者は日本全国のみならず海外にまで広がっており、投句数も一七万二〇〇〇句にまで増加していたようである。第二回大会から選者を務めている楠本は一九八八年一二月に亡くなっているが、同年に行われた第二六回大会の選を行っているほか、亡くなる一ヶ月前に刊行された本書にも「私と小中学生句」と題する一文を寄せている。

 よい俳句に出会ったときの嬉しさは何とも言えないものです。

 また下手な句でも、下手なりにほほえましいものが多く、私はいつも心が洗われるおもいがします。

 それにひかれて子ども俳句の選を四半世紀にわたってやってきたのですが、やってあげているという心は毛頭ありません。逆に子ども俳句に教わることの方がいかに多かったことか。

同じ文章で楠本は「全国小中学生俳句選者としての道は私の生ある限り続くでしょう」と書いているが、これは決して口先だけのことではなかったのである。

さて表題句だが、同書に引用された座談会記事(扇谷正造、小谷正一、草柳大蔵、楠本憲吉『花も嵐も踏みこえて―ベテラン・男の井戸端会議』(グラフ社、一九八七)所収)で、楠本は次のように発言している。

 ときには、めちゃくちゃな俳句があって大変なんです。コマーシャルをそのままよむ子供がいる。今の赤ん坊が最初に覚える言葉は「パパ」とか「ママ」じゃない。CMなんです。テレビの前へポーンと座らされてじーっと見ているから、まずCMを覚えてしまう。ですから、頭の中にCMがいっぱい入っていまして、それがすぐ出てくるわけです。

 例えば千葉の子供から、「秋風や千葉の女は乳しぼり」という句が来た。僕は何の句だかわからない。これはコマーシャルなんです。それから、名古屋の子の「落ち葉してきれいな紅葉もあるでよー」、これもコマーシャルなんです。

 たくさん見ていまして、ハッと目を見張る思いをしたのが「さそり座の尾の一げきに流れ星」。これは中学校二年生の子の句です。僕はあまりうますぎるので怖かった。お父さん、お母さんの代作か、あるいは盗作かもしらぬと思って電話したんです。そしたら、これはアニメなんです。テレビの場面が変わると、さそり座がさそりになる。それがピンと尾をはねたら星を一つはねて、それがピューッと落ちていって流れ星になったというんですね。

興味深いのは、このように述べた楠本が決してこの句を低く評価しているわけではなく、アニメの映像から発想したこの句について座談会の後で次のような語りかたをしていることである。

  さそり座の尾の一げきに流れ星           北海道共和中二年 村上克美

 私は、芭蕉の「奥の細道」を辿り、

  荒海や佐渡に横たふ天の川

 の実感を探るべく、数年前の七夕の前夜、余市に一泊、宿の大屋根に登り、しみじみと大銀河系を鑑賞したことがありますが、その自然の景観の見事さに一句も出来なかった苦い経験があります。

 ところがどうでしょう。中二の村上克美君があの美しい夜空の一瞬の出来事を敏活な目くばりでとらえ、大人も及ばぬメタファーで、十七文字に再現してみてくれました。

 私は目を見張りました。

 これこそ選者冥利というものでしょう。

ここでアニメの映像から発想してつくられた句を、楠本はあたかも実景の描写によるものであったかのようにわざわざ語り直しているのである。この不自然な語りは、アニメの映像をアニメの映像として読まず一度実景に焼き直してから読むという、楠本の効率の悪い読みに起因するものであろう。しかし作者の村上にしてみればアニメの映像を書いたにすぎないわけで、だからこの句は「美しい夜空の一瞬の出来事」の「メタファー」ではなかった。結局のところ、ここでは何をもって一句のリアリティを担保せしめるかということに関して、書き手と読み手との間に行き違いが生じているのである。村上の句を成立させているのは「美しい夜空の一瞬の出来事」でもなければそれをとらえた「敏活な目くばり」でもなかった。ましてや「大人にも及ばぬメタファー」などというものでもなかった。この句が示唆していたのは、アニメの映像を実景に落とし込まさずに俳句として書ききってしまうという、およそ楠本の想像もつかないような奇妙な事態の表出ではなかったか。