【11】駅よ以後も依然脳裡に署名の声     岩間清志

 岩間清志『衝突』(新俳句人連盟、一九六四)の一句。「松川事件全員無罪一句」の前書を付す。この句は一九六〇年から一九六二年までの句を収めた章「一路五月へ」のなかに含まれている。前書にある「松川事件全員無罪」とは一九六一年に仙台高裁から出された松川事件の被告人全員に対する無罪判決を指すのであろう。ひとつの事件の解決を前にして、岩間はそれを「脳裡」にうかぶかつての「署名の声」の回顧とともに受けとめるだけでなく、その「署名の声」が「以後」も「依然」としてありつづけるのだというように未来へと投げだしてみせる。ここで重要なのは、岩間が「以後」を見通すときに、それがわざわざかつての「署名の声」を投射するかたちで行われているということであり、さらにいえば、このような回顧をもって「以後」を語ることで「以後」にどこか感傷的な彩りが添えられているということである。岩間は次のような句ものこしている。

竜にもなれる列が僕たち徐々基地へ

デモと対峙の金網の目ぞ何に揺れる

こうした青年の血気はしかし、それがひとたび過去へと送りこまれると、今度は自らの未来の印象を決定づけるものとして想起されるものへと転じていく。このような閉鎖的なセンチメンタリズムに甘んじているところに岩間の限界があったようにも思うが、このような句を書き続けた岩間の抱えていた問題はもう少し複雑なものであった。

岩間について、その師にあたる古沢太穂は自らの句である「霧色のかぶと虫青年期を彼越し」にふれつつ次のように語っている。

岩間は三十六歳で一番若かったが「俳句人」の編集長で、私たち以後もっとも新しい作品の世界を展いて若い作家たちの信頼を集めていた。岩間や板垣(板垣好樹―引用者注)・敷地あきら・望月たけしなど新制中学も満足に出ていない労働者作家たちが、すでに青年期を越して活躍している姿を、私は岩間に典型的に見た。その彼が、同じ年(一九七三年―引用者注)の十一月十四日、くもまく下出血で急逝しただけに、この句に把えた彼が、瞼に深く灼きついている。(「自作ノート」『現代俳句全集』立風書房、一九七七)

『衝突』は岩間の第一句集である。巻末の略歴によれば岩間は一九三七年一二月生まれであるから、『衝突』上梓時には二七歳、そのわずか九年後、三六歳になる年に亡くなっている。古沢のいうように岩間は群馬県伊香保中学校を病気のために中退しているが、一九五四年から群馬県の結核療養所「大日向荘」の俳句会を通じて古沢太穂の主宰する『道標』に参加するようになった。『衝突』から一〇代の頃の作品を引いてみる。

痩穂麦吹かれ北向く北にも基地

農夫の句多くうたわれ台風来る

便所寒く「守れベツト」のビラ置きある

岩間は一四歳で結核を患ってから五年以上を大日向荘で過ごしたが、この時期の岩間を知る板垣好樹は次のようにふりかえっている。

その当時の大日向は、日患同盟の拠点となり、全国の患者会の活動の中心的な存在となつていました。そして、その運動のひろがりは、入退所基準による生活保護法で入院している患者のしめつけに対する県会陳情(昭和三十年)や、健康保険法の赤字を埋めるという理由での大幅な改悪や重症患者に必要な付添婦制度を廃止して完全看護という名のもとに患者を不安におとし入れる合理化に反対するたたかい(昭和三十一年)が国会に大陳情をするという形で行われた時期がありました。このような患者会のエネルギツシユなたたかいの中で、大日向の中の文化サークルや、民主化運動が大きく広がり活発になつた時期でもありました。(略)今日でもそうですが大日向に岩間清志や私たちがいた頃は、病人といえども、安心してベツトに寝てはいられないようなことが多くありました。(略)国民は常に苦しめられているということを岩間清志はその身体で感じて、重症の床にありながら、その意識は、次第に社会的に眼を向けて、そおゆう(ママ)、思想の発展するのと同じように、俳句で、そのような現実と対決していたのです。(「変革の俳句」前掲『衝突』)

いわゆる療養俳句として名高い『惜命』を石田波郷が上梓したのは一九五〇年のことであった。病状や年齢こそ違え、その四年後に療養所で俳句を始めた岩間が『惜命』のそれとはまるで異なる表現を志向していたということを思い起こすとき、そこからは波郷の限界と、そしてまた、ひとりの青年が一九五〇年代という時代と切り結びながら俳句を自らの表現としていくときの幸福と不幸とが浮かびあがってくる。

板垣は先の文章のなかで「当時、俳壇では、社会性論議がもてはやされていましたが、その実体ははつきりつかめな」かったとも述べている。この「社会性論議」については、赤城さかえが「社会性論議の発端は、昭和二十八年十一月号の『俳句』誌にあると思う」としており(「社会性論議の実態」『戦後俳句論争史』俳句研究社、一九六八)、田川飛旅子はこの赤城の指摘をふまえたうえで「俳壇の華やかな話題となった社会性論議は、昭和三十年を過ぎると、火の消えるように低調となってしまい、昭和三十一年以降には、あまり問題は顧みられなくなった」としている(「社会性俳句の行方」『俳句研究』一九六八・七)。赤城も田川も「社会性論議」のただなかにいた人物であっただけにこうした発言は信頼に足るものだろう。岩間が俳句に手を染めたのは、奇しくも「社会性論議」が盛り上がりをみせたわずか数年間の時期だったのである。だから岩間が自らの表現を模索するということは、いわば「社会的に眼を向け」ることに目覚めた青年が、下降線を辿る「社会性論議」を背景としていかに生きるのかという問題をはらむものであった。さらにいえば、それは、以降「前衛俳句」や「造型俳句」などをはらみながらやがて「〈戦後派〉が最も〈戦後派〉の名に相応しかったのは、戦後の時代状況の推移にヴィヴィッドに反応した昭和三〇年代前半までであり、その後の時代がもたらした一種の安定意識が彼らの時代に対する抵抗力をなしくずしにしていったそれ以後ではないということである」と評されることになるような時代をいかに生きるかということでもあった(沢好摩「戦後派の功罪」『俳句研究』一九八三・一)。岩間はいわゆる「戦後派」よりも一つ下の世代に当たるのだろうが、重要なのは、「その後の時代がもたらした一種の安定意識」は岩間にとってもまた不可避のものであったはずであり、とりわけ「社会性論議」のただなかに自らの出立を見る岩間において、そのような「安定意識」といかに対峙するかということは書き手としての生命にかかわる問題であっただろうということだ。

岩間のよき理解者であった敷地あきらは巻末の解説(「「衝突」によせて」)で、岩間が労働者のサークルにおける短詩形軽視の傾向を問題視していたことにふれ、そのような状況がふくむ「種々複雑な問題」について次のように述べている。

最近では、大きな会社では、職制を動かして、労務者管理の一環として俳句会を利用したり、また労使協調的な労働組合では、文化部主催など、機関紙に俳句の募集をするそうだが、作品については編集部厳選などとゴヂツク活字で宣伝されてしまうと、まつとうな労働者俳句は編集部の厳選のすえボツにされてしまうような気がして投稿する気になれないという話もあり、たしかに労働者俳句作家をとりまく客観的情勢はきびしいものがあるといえるが、そうしたきびしさに甘んじてきたゆえに、ついには、職場やサークルから労働者俳句が停滞しはじめてきているといえないだろうか。

これは一九五〇年代が終わりを迎えたあとのサークル活動の実態を伝えていて興味深い。しかしここで注目したいのは俳壇における社会性論議の収束を自覚したうえで書かれたと思われる次のくだりである。

 いま一つの問題点は、青年俳句作家といわれる人たちの問題だといえる。(略)現在では中央俳壇へ向けての立身出世主義的な勉強に力がはいりすぎ、やたらと、モダニズム的な傾向に影響をうけ、作品が抽象とか、メタハアーとかこむづかしい努力を重ねているわりに真実性のとぼしい、内容がともなわない俳句をつくり、大衆が遊離してしまうような創作活動に専念しているということであろう。

敷地の「真実性のとぼしい、内容がともなわない俳句をつくり、大衆が遊離してしまうような創作活動に専念している」という批判は当時「前衛俳句」作家と一括りにして呼ばれていた一群の作家たちを意識して書かれたものであっただろう。それは「前衛俳句」への批判としてあながち誤りともいえないが、しかし自らと同じ時代を生きる作家たちの仕事がこのようにしか見えていなかったというところに、敷地や岩間の限界があったのかもしれない。

しかしながら、岩間の仕事がどこか貴いものに思われるのは、岩間がそのような自らの限界を省みることなく、自らの出立した場所に立ち続けようとしていたためであろう。敷地は二〇代の岩間が創作と批評活動の場として志茂町句会を組織したことについてふりかえるなかで、岩間の次の言葉を紹介している。

ぼくらはもつと勉強して、若い労働者に感動をもつてむかえられるような、すばらしい作品をつくつて、どんどん若い人たちの中へもちこまなければいけない

僕は、こうした岩間の思いが少なくとも岩間自身にとってはどこまでも真実であったということを疑わない。そしてこのような言葉が「社会性論議」のほとぼりが冷めつつある状況で発せられたということを思うとき、また同時に、かつての「社会性論議」がわずか一〇数年後には次のように思い起こされるものとなっていたことを知るとき、僕は、岩間の言葉の届く場所など実は初めからどこにも残されていなかったということに愕然としながら、しかしそのような状況にあってもなお岩間がこれほど誇らかに自らの仕事を語れたということに羨望の念を抱くのである。

この時代は、いま、俳壇の主力を占めている中堅作家たちが、いずれも三十代の、もっとも血気さかんな頃であった。そして、これらの世代を同じくする作家たちの、はげしい自己淘汰の時期でもあった。

 しかし、この俳句運動は、多くの未解決の問題をはらんだまま、やや尻つぼみの感じで、いつのまにか消滅してしまった。単に、消滅したばかりでなく、当時、この俳句運動の主力とみられていた「風」グループの中から、数年前には飴山実氏、最近では沢木欣一氏などの、かなり否定的な批評が現れはじめた。(高柳重信「編集後記」『俳句研究』一九六八・七)