句楽会『大入札』(俳句研究社、一九五八)の一句。「句楽会」とは「劇団新派の同人たちを中心に歌舞伎その他の俳優諸氏や、また舞台の裏や表の仕事をする現場の人達、劇作家、演出家、ジャーナリストなど」が参加した句会である(仁村美津夫「あとがき」)。同書はこの句楽会のメンバーのほか、「親元」の久保田万太郎、「親戚筋」の吉井勇、大場白水郎、中村汀女などが参加した句文集。水谷八重子、市川猿之助、長田幹彦、中村芝鶴、川口松太郎、喜多村緑郎、安藤鶴夫、中村歌右衛門など総勢五〇名以上の俳句や文章が掲載されている。
句楽会のはじまりについて、花柳章太郎は次のように書いている。
終戦後、いくらか生活にも余裕の出来た昭和二十七年頃、新派の楽屋内で句を楽しむ連中が月々季題を選んで句会をすることになり、その時、松竹本社の俳句好きの人々が参加して、句楽会を復活さしたらと云ふ提言があり、第一期の方々で現存するのは久保田先生、吉井先生、長田幹彦先生、喜多村師、それに私などであつたので、その会名をそのまま、ここ数年続けて来ました。
そのうち、歌舞伎の方でもその集まりに参じるやうになり、昔のそれより多彩になつた訳です。(「句楽会再催に就いて」)
ここで「第一期」といっているのは大正三四年ごろに結成された「句楽会」のことで、花柳の文中にある三名のほか小山内薫、中村秋湖、岡村柿紅、尾上伊三郎、福島清、田村寿二郎、三木重太郎、服部普白、落合浪雄などをメンバーとする句会であった。なお、この第一期句楽会は同人雑誌として『太平楽』、同人句集として『鵙の贄』を出している。
文壇と演劇界が混然となった『大入札』には、俳壇の知っているそれとは異質の俳句史の姿が見え隠れしている。
わたしが俳句に興味を持つようになつたのはまだずつと若い時分だ。かれこれ五十年ぐらいも前になるのではないだろうか。まだ、新傾向等などは、その気もなかつたころであつた。
そのころ、向島に増田竜(ママ)雨という、これは久保田万太郎先生はご承知の人と思う、この人がうちで仕事をしていた。この竜雨氏がわたしに俳句の手ほどきをしてくれた。
そのうちに、先代左団次といつしよに仕事をするようになつて紹介されたのが小山内撫子だった。撫子は小山内薫氏の俳号で、左団次と彼は狂歌、狂句、都々逸等の雑俳仲間。わたしは、小山内氏と兄弟同様の親しい交際をするようになり、彼を「兄貴、兄貴」と呼んでいるうちに、いつの間にかその雑俳の仲間にも引き込まれていた。(市川猿之助「鬼あざみ」)
増田龍雨は八世雪中庵梅年の高弟だった義父雷堂龍吟に俳句を学び、義父の遺言で斎藤雀志(九世雪中庵)の門下となった。自身も後に雪中庵一二世を任せられている。「朧夜やわたるともなき九十九川」「大みせのうしろ小見世やくつわ虫」「祭提灯つけて夕空青きかな」など、江戸から東京へとうつろいゆくなかに生きた龍雨の句は、その独特の地誌を背景に据えた美意識に、近代俳句とは一線を画すところがある。この龍雨に手ほどきを受けたという市川猿之助は薊と号した。この俳号はもともと小山内薫の俳号「撫子」に対して「常夏」と定めたものの父親の「鬼薊」にしろとの意見を容れて薊にしたものだという。薊の俳号に不満だった猿之助に、のちにファンから「聞いておそろし見てこわらしい、咲いてやさしい鬼薊」という都々逸が届けられたというのはいかにも役者らしいエピソードであろう。
また、巖谷小波の子である巖谷槇一は次のように書いている。
門下生の『木曜会』や傍系の『木太刀』『南珂吟社』などの人々が二十五人も集つて高輪の家の二階の十畳と八畳とをぶつこぬいて、よく句会をやつた。(略)
真面目な南珂吟社の人々や、木曜会の中でも西山諸山、生田葵山、黒田湖山等は、真剣に俳句を作る方の人だつたので、愉快にしやべりながら作つている人達も嫌つて、縁側の欄干の隅へ逃避して席題に頭を悩ましていた。つまり楽吟派と苦吟派とがいつも面白い対照をなしていた。
荷風さんも、ほとんど毎回見えられたが、到つて楽吟派で、いつもにこにこと談笑のうちに、投句していられた。(巖谷槇一「句相撲」)
この句会では席題の披講のあとに「句相撲」のほか「字結びや慶祝体とか弔意体とか、折句とか、いろいろのケレンを時々やらされた」というが、こうした句会で育った巖谷槇一が参加しているところに、もともと「八笑人的の寄り集り」(吉井勇「句楽会句集について」)から始まったという句楽会の雰囲気がうかがえる。
さて、表題句に話を移せば、作者の花柳章魚とは劇団新派の役者花柳章太郎のことである。一九一五年三月初演の「日本橋」(泉鏡花原作)を出世作とし、以後晩年にいたるまで新派をリードしてきた花柳にとって、明治座の度重なる再建の歴史は自らの役者としての人生に近しいものであったろう。一八九三年に初代市川左團次が千歳座を買収して誕生した明治座は、関東大震災(一九二三年)、東京大空襲(一九四五年)、漏電による火災(一九五七年)と度々焼失の憂き目にあっている。句に詠まれたのは一九五七年の火災であろう。空襲で焼失したままの明治座がようやく再建されたのはその五年後、一九五〇年のことであった。そのわずか七年後の火災である。それを「四月馬鹿」と言い放つところがこの句の身上であろう。
この句に限らず、演劇にまつわる句は本書のいたるところに見られる。
派手なるが故に楽屋の浴衣とす 市川翠扇
楽屋着の紅とうざんや春の雪 花柳章魚
さまざまな春の踊りの鬘結ふ 大沢雨水
着ぶくれて鯰坊主の鯰ぐま 高根宏浩
はからずも羽紅に扮す桃青忌 中村魁春(中村歌右衛門)
新米をたいて初日の小豆飯 遠藤為春
曾我物の書き抜き古し鮑熨斗 沢村訥子
舟の出る序幕みぢかし夏芝居 柚木久枝
台詞まだあざやかならず三ヶ日 中村芝鶴
「さまざまな」は床山による句、「着ぶくれて」は舞台美術家による句である。演劇を題材とした句が多くみられるのが本書の特徴だが、役者の手になる俳句ならば本書に限らず多くの句集に見ることができよう。しかし役者以外の演劇関係者の句を多く含んでいる本書においては、役者や舞台のありようを役者のそれとはやや異なるまなざしでとらえた句が散見される。
一方で、下町の生活を抒情的に捉えた句も少なくない。
近道の露次露次にある朧かな 伊志井裸寛
雪降れば佃はふるき江戸の島 北条秀司
公家悪の羽子板市に売れのこる 中村芝鶴
浅草を故郷と呼ばむ夏羽織 江口真痴子
句楽会では久保田万太郎が選や指導を行っていた。したがってこれらの句に万太郎の影をうかがうこともできようが、そのように万太郎からの一方的な影響として見てしまうと句楽会のコミュニティとしてのありようを見誤ってしまうように思う。句楽会とは、むしろ万太郎の抒情的な下町趣味をメンバーが共有できるような美意識に支えられた場であったのだろう。たとえば「浅草を故郷と呼ばむ夏羽織」などは、やや洒脱でこざっぱりとした趣を湛えている点、抒情的でありながらも万太郎の詠みぶりとは趣を異にしていよう。本書には「極道の果の羅いま甚平」(久保田次郎)の一句もある。抒情的でありながら軽さを手放さない詠みぶりは表題句「四月馬鹿明治座焼けてしまひけり」にも共通するが、これはあるいは句楽会の句の本質的な部分なのかもしれない。