【14】極月のストてふものを憎みけり     小林寛山

小林寛山『柿の花』(非売品、一九七七)の一句。著者の小林は一九〇三年に岡山で生まれた。一九二四年に脊椎カリエスのため療養し、その際田村万有主宰の「帆柱」を購読したことがきっかけで句作を開始した。終戦後は兵庫県の和田山町えぼし句会に参加、「木兎」に拠って京極紀陽の指導を受けている。以後「ホトトギス」「木兎」に拠って句作を続けた。本書が小林が古稀を迎えるにあたって自作をまとめて句集としたものである。

足冷ゆるか弱き妻よ秋隣

妻も来よ娘も早く来よ初写真

鯊釣りの好日父子相睦み

  亡妻写真に裏書

世に在りて睦みし日々を忘れまじ

『柿の花』には家族を詠んだ句が頻出する。その詠みぶりをよく示しているのは二句目であろう。一九五二年にこの句を詠んでから八年後、小林は再び「初写真一家五人の相睦み」と詠んでいる。「睦む」という言葉をつかって家族の相睦む場面をくりかえし詠う小林だが、しかしながら営みについて、そこに表現力の低さばかりを読みとることははたして妥当であろうか。小林は本書の「あとがき」で自身の句作について「虚子先生の花鳥諷詠の写生に徹し得ず」、「真剣な作句態度とは程遠いもので常に主観が優先したものが多」いと述べているが、こうした「主観の優先」はときに思わぬかたちで表出されることもある。

ここで表題句に話を移せば、この句は一九六七年に愛孫の摂の納骨に際して詠まれた句である。句集では次のように配列されている。

  摂納骨

孫埋む鍬に師走のうす日かな

極月のストてふものを憎みけり

  綾部駅

朝霜の駅に昌子の泣きし顔

小林のストを憎む思いは家族の死との絡み合いながら初めて生まれてくるものであったろう。この連載では以前岩間清志の『衝突』をとりあげたが、岩間が炭鉱労働者のハンストを「同志なる片鱗が瞳や口にきりり」と詠んだのはわずか五年ほど前のことであった。岩間とはおよそ異なる場所にいて「ストてふものを憎みけり」と詠んだ小林のまなざしをたんに鈍いそれとして斥けることは僕にはできない。なぜなら、岩間の句のたたずまいの美しさとは、小林の句によって斥けられてしまう危うさを持つゆえに際立ってくるものであり、一方で小林の句の美しさとは、家族への愛情をもって岩間の句を斥けてしまう傲慢さゆえに際立つものであるからだ。

この、ある種の傲慢さゆえの美しさは、家族詠に限らずこの句集のいたるところに見ることができる。

初鶏や決戦の年改まる

  終戦玉音放送

玉音にひれ伏す民や蝉時雨

民一人騒がぬ国の強さかな

戦犯のラヂオ聞く夜の時雨かな

皇太子殿下御婚儀

プリンスに桜吹雪の日本橋

オリンピック

秋晴の都大路を聖火行く

團地夫人どつと乗り来し花衣

アポロ十一号月着成功

人 月に達すとニユース夏の月

万国博覧会にてきみ写生

万博の帽子似合いぬ秋暑し

浅間山荘 赤衛軍暴徒

春雪霏々断固不逞は撃つべかり

渡辺白泉は「玉音を理解せし者前に出よ」と詠んだが、たとえば「玉音にひれ伏す民や蝉時雨」と詠む小林に、白泉のような批評精神を期待するのは難しいだろう。実際、「玉音にひれ伏す民」を見出すにとどまるまなざしの精度においては、終戦を「民一人騒がぬ国」を詠みつつもそれはついに「強さ」の感嘆へと短絡してしまうのである。そのときどきの出来事を何のてらいもなく詠ってしまう小林について、自らの表現行為にあまりにも無自覚な書き手であると批判することはたやすい。そして、そのようにいってしまうならば小林の作品にはほとんど見るべきものはないだろう。しかしながら、そのような批判は小林自身にとってどれほど切実なものであっただろう。小林は富澤赤黄男や西東三鬼とほぼ同世代に当たるが、赤黄男や三鬼がどれだけ鋭く時代と切り結ぶ仕事をしていようとも、それとは異なる場所で書き続けていたのが小林であったのである。もちろん、それは作家的自意識のもとに選択された行きかたではなかっただろう。けれども、それが無自覚で傲慢な営みであればこそ、僕にはますます小林の俳句が小林自身にとって輝きを増してくるものであったように思われるのである。