【24】宿禰蹶速相撲の跡や草の花     中尾虚山

北出清五郎・水野尚文編『相撲歳時記』(TBSブリタニカ、一九八〇)の一句。本書は相撲に関する季節ごとの様々な事柄を綴ったものである。相撲の七〇手の決まり手のほかに、決まり方としての「勇み足」、「腰砕け」の二つを加えた七二手になぞらえて、七二項目にわたって述べられている。本書には「俳句・川柳に見る相撲」と題された一項もある。
そういえば、そもそも「相撲」は秋の季語でもあり、俳句とは浅からぬ縁があるのである。相撲が秋の季語とされているのは旧暦七月七日に相撲が行われていたためである。本書でも、和歌森太郎の説を引きながら、その年の農作物の豊凶を占う神事としての民族的起源をもつ相撲がやがて宮廷に取り入れられ、さらに平安時代に入って「節会相撲」として年中行事化した、としている。相撲はまた「素舞」に語源をもつともいい、技芸的側面を持っていた。いずれにせよ、こうした節会相撲は天下泰平・五穀豊穣を神に祈る重要な儀式であって、これが三百年近く続くことになる。鎌倉時代に入ると頼朝が上覧相撲をしばしば行うようになったが、曽我兄弟の仇討につながる河津三郎と俣野五郎の相撲が行われたのもこの頃のことであった。やがて相撲は庶民の間にも流行するようになり、諸大名に召し抱えられる職業力士が生まれ、巡回興行も行われるようになっていった。俳句に詠まれるのは宮相撲や上覧相撲だけでなく、このように庶民に支持された相撲のありようであった。本書で紹介されている句をいくつか見てみよう。

べつたりと人の生る木や宮角力                        一茶
阿波人は阿波の相撲をひいき哉                        子規
錦塩をつかんで雪のやうに                         別天楼
相撲取りのおとがひ長く老いにけり                       鬼城
情婦を訪ふ途次勝ち去るや草相撲                       蛇笏

相撲取りの老いを詠んだ句は少なくないが、鬼城の句はそのなかでも佳品というべき作品であろう。一方、蛇笏の句は草相撲のおおらかな気味がうかがわれて面白い。草相撲や辻相撲を詠んだ句は多く、「少年の腰のくびれや草相撲」「辻相撲褌とけて止みにけり」などには聖俗入り混じった「相撲」の懐の深さを感じる。
傘雨こと久保田万太郎にも相撲の句は多い。

双葉山引退の日に
一生に二度と来ぬ日の小春けふ
初場所やかの伊之助の白き髯
夏場所やもとよりわざのすくひなげ

伊之助(一九代式守伊之助)は風邪を引いたのをきっかけに髯を伸ばすことを認めてもらったことから「髯の伊之助」と呼ばれ親しまれた人物。一九五八年秋場所初日の取り組みの差し違えを巡って土俵をたたいて抗議し評判になった人物でもある。万太郎の次の句はこの騒動を詠んだものである。

正直に物言いて秋深きかな

この句の面白さは伊之助をひいきにする万太郎のまなざしにこそあるように思われる。えてして、相撲の句にはこうしたひいきのまなざしが垣間見えることが少なくない。

三十を老いのはじめやすまひ取                        嘯山
小角力やかくても師の名をしみけり                      碧梧桐
貧にして孝なる相撲負けにけり                        虚子

鬼城の作にかぎらず、相撲を詠むということはたんに勝ち相撲の強さ美しさを詠むというだけではない。鬼城の句の「おとがひ」の美しさは相撲びいきの目をもってはじめて見出しえたものであろうし、あるいは万太郎の「正直に」の句にしても、「白き髯」の伊之助を愛すればこその一句であったろう。のみならず、伊之助を「かの伊之助」と言うことのできる万太郎はそのような伊之助びいきが自分に限ったものではないことを十分に承知していたにちがいない。「奉公にゆく誰彼や海蠃廻し」「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」といった句をものした万太郎について、かつて芥川龍之介は万太郎の句集『道芝』の序文で「久保田氏の発句は季題並みに分ければ、所謂天文や地理の句も大抵は人間を―生活を、―下町の匂を漂はせている(略)久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と評したが、万太郎の句はすなわち万太郎以外の誰彼の句でもあった。じっさい、伊之助の必死の抗議は多くの同情を呼んだのであって、この句は、このような多くの伊之助びいきの声のなかにあってはじめて生まれたものであったろう。そしてこの句が誰彼の句でもありうるという厚みのようなものこそが、この句を支えているのだと思う。
そして、こうしたひいき目の究極ともいうべきものが次の句である。

宿禰蹶速相撲の跡や草の花                          虚山

虚山は本名を中尾方一といい、相撲研究家として知られた人物である。収集家としても知られる虚山にはその蒐集品の図録『相撲図録』があり、そこには相撲錦絵や力士の手形、書のほかに、蛇笏らによる相撲の句の短冊などが見られる。虚山にはまた、相撲にまつわる古今の俳句を集めた句集『すまふ草』もある。こちらは現物を目にするのがなかなか困難だが、世良正明編『相撲の俳句川柳』にその一部が収録されている。
さて、この句については次のような解説がある。

大兵主神社の大鳥居の手前、参道の南側はカタヤケシと呼ばれる景勝の地。ここに「相撲神社」がある。(略)
相撲神社の境内には小さな祠があり、そのかたわらには石碑が立っている。
祠は従来野見宿禰が祀られていたが、昭和四十一年からは当麻蹶速も合祀された。石碑は昭和十五年に建てられたもので、その表面には「宿禰蹶速相撲の跡」、裏面には「芦屋芦郷土、東京中尾方一」とある。

奈良県にある大兵主神社は『日本書紀』によれば野見宿禰と当麻蹶速の力くらべが行われた場所とされており、芦郷土(猿丸吉左衛門)と中尾はここを相撲発祥の地として顕彰する意味で碑を建てたのである。もっとも、これはあくまで伝説の類であって史実とは異なるとする見解もあるようだ。だが、そうであればこそ、なおさら虚山の句に切実さが加わってもくるようである。
たとえば伊之助の軍配差し違えの一件にしても、観衆にとって、伊之助の軍配が本当に正しかったのかどうかということはどれほど重要なことであったろうか。観衆の眼には伊之助が正しく軍配を上げた姿がたしかに見えたのであって、そのまなざしが多分に幻想をはらんでいればこそ、万太郎の句はいっそう輝きを増すのである。いったい「宿禰蹶速相撲の跡」が贋物だったとして、それが何だというのであろうか。虚山にはたしかに宿禰と蹶速の相撲が見えていたのであろう。ここでは、その、見えていたということが肝心であって、その史実としての正誤は―むろん虚山にとっては史実として正しいことであったに違いないが―さほど重要なことではない。