【25】卯の花を手折りて向ふ犬供養     大河内一夫

『輪』(輪の句会合同句集・第一集、輪の句会、二〇〇七)の一句。大輪靖宏を中心とする「輪の句会」の合同句集である。大輪自身は結社に所属していないものの伝統俳句協会理事を務めており、また参加者のなかには虚子の孫で「春潮」主宰の松田美子の名も見られるなど、全体としては「ホトトギス」に近しい場であることがうかがわれる。大輪の序文によれば、同会は鎌倉女子大学の公開講座で俳句の講座を担当していた大輪の「俳句を作って楽しむ会を作りませんか」という呼びかけで二〇〇三年に生まれた。本書の発行時の参加者は約百名、これを雪・月・花・虹の四組に分けて句会を行っているという。大輪は序文の最後で次のように述べている。

「輪の句会」の参加者は、はじめて俳句を作った人もいれば、以前から作っていた人もいる。うまい人も下手な人もいる。しかし、俳句を楽しむという点では全員が完全に一致している。各組の句会は和気藹々たるものであるし、終了後の任意の参加によるビール(人によってケーキ)の会も和やかで楽しい。ここで新しい友人関係も芽生えつつある。この楽しさこそ俳句の大きな徳ということになろう。このようなところから、人生に豊かさが生じれば、それ以上何を望むことがあろうか。

本書には会員の二〇句のほか、短い自己紹介文も掲載されているが、大輪のいう「俳句を楽しむ」という精神はこうした会員の自己紹介文に顕著に表れている。

先生の「俳句は老後の楽しみ」を旨とし、励みにもしています。(田中かづえ)

10年以上俳句は難しいと苦吟を続けてきたが、“俳句を楽しむ”輪の句会に参加して1年半、好きな季語を使って自分らしく作る楽しさを知った。(南雲邦子)

俳句は「老後の愉しみ」以外のなにものでもありませんが、それにしては手強いものだと日々思い知らされています。(藤岡孝子)

カルチャースクールや公開講座の流行はそれを土台とする句会や俳句サークルを生んだが、「輪の句会」もそうした流れのなかで生まれたものであろう。また「俳句を楽しむ」という精神はこの種の句会やサークルにしばしば見られるものであり、輪の句会はその典型的な例のひとつではあるまいか。
それでは、本書の句をいくつか見ていくことにする。

人生の余白しつかと青き踏む                       砂川幸三
若さとは眩しきものよ桜貝
妻に客笑ひの絶へぬ夏座敷
粛粛と翁ひとりの田植かな
雪をんな俳句の中に生き残る
小春日や女は軽い嘘をつき

こうした句を詠んだ砂川はまた次のように書いている。

40年にわたる商社生活に疲れ果て人生の余白を静穏に過ごし度いと願う 俳句は一人で楽しめる趣味として10年前より独学 しがらみを嫌い名望を求めず特定の師系や結社とは無縁

砂川の句の自足感にはちょっとたじろぐほどである。実際、「若さとは眩しきものよ」という砂川ほど「若さ」を羨んでいない者はあるまい。砂川が書くのは「笑ひの絶へぬ夏座敷」ではなく「笑ひの絶へぬ夏座敷」の外にいる自分自身であろう。しかしそのような自分の姿を認めることは砂川にとって決してさびしいそれではあるまい。いや、そのような自分の姿がいかにもさびしそうなものであればこそ、ますます詠むに足るものとなるのではあるまいか。その意味において自らの姿を詠む砂川の姿もまた決してさびしいものではない。「粛粛と翁ひとりの田植かな」にしても、この句からうかがえるのは、砂川が「粛粛と」した「翁」の姿を見出したゆえの一句であったというよりも、「翁」が砂川によって「粛粛と」したそれへと転じていくというような、砂川のまなざしのもつある種の傲慢さであるように思われる。
あるいは「雪をんな」の句にしても、それを「俳句の中に生き残る」と言ってはばからないのは、こうした傲慢さによるものであろう。「俳句」に携わる砂川が、その「俳句」に「雪をんな」が「生き残」っているとするとき、その言葉はむしろそのように囲い込んだ側の欲望のありようを照らしだしているように思う。それは「小春日や」の句についても同様である。このように「軽い嘘」を書きとめるにとどまる砂川は、自らの額縁(あるいはそれを「余白」という名で呼んでいるのかもしれない)に他者を収めることによって自らの句をかたちづくっているのである。この種の傲慢さは何ら批判するにあたらない。というのも、すくなくとも砂川にとって俳句とはこのように表現するものであって、そこに自足する精神の潔癖さをもって砂川の句は初めてほかならぬ砂川の句となりうるからである。「40年にわたる商社生活に疲れ果て人生の余白を静穏に過ごし度いと願う」とあえて書かなければならない砂川は、そのように書くことによってすでに「静穏」に過ごしている者ではありえない。砂川は、書くことによって、そのように書く自らの姿を逆説的に描き出しているのである。
しかしながらここで何よりも興味深いのは、砂川がほかならぬ砂川自身の姿を執拗に描き出そうとしていることそれ自体である。そこに書かれているのがほかならぬ自分自身でなければならないという欲求は、たとえば次の句にも見ることができる。

卯の花を手折りて向ふ犬供養                      大河内一夫

二〇句の冒頭に置かれたこの句について、大河内は「愛犬を亡くして十余年、私の句歴とほゞ同じである。そのときに詠んだのが冒頭の句で、今でも気に入っている句の一つである。これからも身近の出来事を句作にして記憶に残していきたい」と書いている。この句が大河内にとって切実なものでありうるのは、この「犬」がまぎれもなくみずからの愛犬であって、「卯の花を手折りて向ふ」のはまぎれもなく大河内自身であるからであろう。このような切実さは家族をテーマにした次の句にも見ることができる。

紅梅や日ごと増えゆく児の言葉                     佐々木泰子
カーネーシヨンわれより若し夢の母
葉つぱちやんと呼ぶ児の指に梅雨ぽとり
蟬見つけ少年にもどる夫の顔
老老の介護そろひの冬帽子                        古屋宏子
カナカナや母の無い子になりたれば
長生きを恥ぢ入る父よ石蕗の花
骨となる父待つ群れに冬ぬくし

佐々木も古屋もともに家族を詠んだ句を寄せているが、両者の句の趣は大きく異なっている。その違いは、たとえば「幼な子も気付くほどの香金木犀」(佐々木)と「水仙の花の震へを聞き取れず」(古屋)との間に最も顕著に見られるように思う。いわば、他者のありように共感しつつ自他を言祝ぐのが佐々木であって、ついに掬いとることのかなわないものを言いとめてゆこうとするのが古屋なのであろう。しかし両者のこうした違いはここでは問題にしない。興味深いのは、佐々木にせよ古屋にせよ、彼女たちの句における「父」や「母」は、まぎれもなく佐々木や古屋の父や母であるらしいということである。かつて富澤赤黄男は「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない」と述べたが、こうした赤黄男の箴言から最も遠い場所にあるのが先の大河内の句であり彼女たちの句なのである。もしも蝶が「〈その蝶〉ではない」のならば、彼らにとってこうした句を詠むということにほとんど意味がなくなってしまう。逆にいえば、蝶がまさに「〈その蝶〉である」という思い込みこそが彼らの作句という行為を駆動させるのである。だから、彼らにとって「富澤赤黄男」とは、ついに見なかったものでなければならない。しかしながらそのような彼らを批判するのであれば、それは、彼らのようには俳句を作らない、ということの正当性が何ら絶対的なものではないということへの羞恥を伴うものでなければなるまい。
彼らに「富澤赤黄男」は必要ない。彼らにとって大切なのは「愛犬」を亡くしてからの十余年という「句歴と同じ」歳月であり、「家族の絆と愛」(佐々木)であり、「子供達の結婚・出産、父母の死、私達夫婦の病気」(古屋)なのである。だからこそ父も母も、「その父」であり「その母」でなければならない。赤黄男のいない場所でしか成立しない句というものは確かにあるのだ。以前この連載でとりあげた「昔こたつといふ弟子がをりました」において、作者の土茶(柳家小三治)が誰の読みをも受け付けないところにこの句を立たせていたように、佐々木の句も古屋の句も、本当は誰の読みをも受け付けない場所に立っている。だが、読めないということと詠まないということは違うのである。