十亀弘史『スパナ 十亀弘史獄中句集』(十亀弘史獄中句集刊行委員会、二〇〇一)の一句。著者の十亀は中核派が米軍横田基地や迎賓館に向けてロケット弾を発射したとされる一九八六年の事件で須賀武敏、板垣宏、福嶋昌男とともに逮捕された人物。十亀は二〇〇二年一二月に保釈されるまで長期にわたる未決拘留の状態にあった。本書は十亀がいまだ未決拘留の状態のまま一〇年以上を過ぎた二〇〇一年に刊行された句集である。
本書には、たとえば獄中での生活を詠んだ次のような句が散見される。
腕出して腕だけの春鉄格子
獄中に不在者投票梅雨深し
獄庭へぎざぎざの冬降りて来る
十亀は俳句結社の同人でもある母親が獄中に季寄せを差し入れたことがきっかけで俳句を始めた。俳句は母のものに届けられ「人拒む谷鮮烈に紅葉して」はNHKの俳句番組の入選作になったという。その後、一九九五年に獄中で俳句を作っていた小泉義秀と出会うが、本書刊行委員会の発行所が小泉方であることからも、小泉との出会いが十亀にとって重要であったことがうかがえる。妻の十亀トシ子は「一、二をのぞいてほとんどが東京拘置所の中で作られたもの」としているが、先の「人拒む」の句のように、獄中にいながら、ともすると獄中と獄外の景とが自在に入り混じるのが十亀の句の特徴である。
桜を詠んだ句は本書にいくつか見られるが、桜の句についても同様のことが言える。
二糎の隙間より見る遠桜
花びらを受けて静かや手錠の掌
桜は十亀の独房からも見えたのであろうか。一方で、社会を風刺するまなざしのなかにも桜はある。
軍事基地の桜・桜・桜・闇
自足する醜さに満ち花の宴
だが最も興味深いのは、十亀が獄中・獄外の別を超えたところで見ているような桜だ。
雲厚し枝垂桜のなまぬるし
生と死のあはひに満ちし桜かな
ひつそりと桜立たしめ死刑場
十亀には「吉野家の牛丼桜三分咲き」という句もある。この句は獄外での生活を詠んだものとして読むこともできるし、あるいは獄中にあって桜の咲き始めたことへのささやかな心のはずみのなかで吉野家の牛丼を思い出したというふうにも読める。自らの心を自在に遊ばせる十亀は、序文で次のように述べている。
俳句は、ひょっとしたら、独房に似ているかもしれません。
俳句はわずか十七字の定型詩です。字面だけからいえば、極端に狭小です。ところがそこにこそ、一種無限の広大さが現出してくるのです。
どこかで読んだのですが、短歌は後半の七・七が冒頭へ戻り、従って円環をなして閉じられている構造なのだそうです。それに対して俳句は、円環を描きようのない短さのために、五・七・五の全体が大きく外界へと開かれるというのです。
この対比には、とくに短歌好きの方からは強く異論も出るかと思います。しかし俳句が、そのぎりぎりの短さと厳しい制約のゆえに、かえってその狭い字面を離れて、閉塞よりも自由と広大無辺さを生み出してしまうという主張は、私には生きた弁証法を含んでいると思えてなりません。物事は、ある方面を極めると、いつでも躍動的に反対物へと転化するのです。
それに、独房に閉じ込められて続けていると、全生活にわたる極度の制約が、かえって魂の自由や解放を生み出す場合があるという事実を、認めないわけには行きません。
独房での生活を送るなかで十亀は俳句形式について極小ゆえに広大であるという認識を持つに至る。それは独房のなかで身につけた身体感覚に裏付けられた確信であったようだ。
独房に動かぬ時間春の塵
独房に蛇口輝く夏初め
洗濯を水遊びとし独居房
独房にざくりと割りぬ青林檎
独房を梨噛む音で満たしけり
三角の冬晴を置く独居房
十亀は自らの過ごす独房という空間や時間を、身体感覚を頼りにこのように捉えている。「独房を梨噛む音で満たしけり」の梨は、あるいは「公判を闘ひきって梨甘し」と詠まれた梨であったろうか。とすれば独房を満たしたのは闘争の後のしばしの安らぎであったかもしれない。本書に頻出する「独房」は十亀にとって否応なしにそこでの生活を強いられた場であったが、独房に入る以前は俳句を作ることのなかった十亀が偶然に俳句形式と出会い独房を執拗に詠んでいくなかでやがて俳句形式について「俳句は、ひょっとしたら、独房に似ているかもしれません」という認識に辿りついたのは興味深い。
月光を二十四に分け鉄格子
十亀には「鉄格子秋の夕日を膾切り」といった句もあるが、「月光を」の句の方はずっと冷めたまなざしで獄中をとらえている。月の光はまた、「完璧に無一物なり月の獄」のように十亀にとって自らの姿を映し出すものでもあった。
さて、表題句であるが、この句では月が獄の中にではなく外に放たれている。十年以上獄中に拘束されている十亀にはたまらなく恋しい場所だ(そういえば十亀には「痛切に娑婆歩きたき四月かな」という句もあった)。そこに自らを映し出す月を放ったのは、獄外での生活を願う十亀の切ない願いだったかもしれない。こうした十亀の切実さはまた、三分咲きの桜のささやかな華やぎにいつしか吉野家の牛丼を思い描くときのそれと通底するものがあるようにも思われる。
十亀には次のような句もある。
独房に飛ぶ夢を見し良夜かな
独房をとびだすこころ銀河まで
独房の初夢河馬と空を飛ぶ
十亀の「こころ」はときに自在に獄外を飛びまわる。河馬と飛び銀河を飛ぶそれは、しかし、いずれ獄中へと帰ってくる。帰ってくるからこそ、何度でも外へと放たずにはいられないのではあるまいか。