小林一三『次に来るもの』(斗南書院、一九三六)の一句。阪急東宝グループの創業者である小林は茶や美術への造詣の深さでも知られているが俳句を嗜んでもいた。『次に来るもの』は、小林が海外での見聞を踏まえて日本の産業界の展望と提言を述べたものである。本書前半は見聞録の趣をもっているが、一方で現地の日系人と対話しつつ今後の移民政策についての提言を述べるなど、その内容は旅行記の範疇に収まるものではない。たとえば小林が耳にした日系人の声からはアメリカ人による差別待遇や日本政府および領事への不満がうかがわれるが、その一方で小林は北米の日系人について「一種の錯覚に捉はれてゐる」とし、次のように述べている。
それは諸君の態度は、旧の如くいはゆる出稼ぎ人根性の露骨なる態度であつて米国人として永久にこの楽土に生活せんとする心がけよりも、その稼ぎためたお金を内地へ送金しその余生を内地で送らんとする思想が、深く深く諸君の胸底に滲み込んでゐる。
小林によれば日系人の間に不平不満があるのは「現在諸君の態度が出稼ぎ人である以上はどうしても免れることの出来ない現象」であるということになる。本書ではまた、一世のように働かずに有り金を慣れない商売につぎ込んで失敗する二世への不満を述べたロサンゼルスの日系一世の言葉も紹介されているが、「現在のまま進めば第二世の多くは倒産し、衰微し、あなたが如何に頑張れ頑張れというても、羅府における日本人の勢力は今が絶頂で、夕陽の如くにやがて消えてゆく運命にあると思ふ」という意見に対し小林は次のように反論する。
或はお説の如く第二世の多くは倒れるかもしれない、しかし第二世のその中のあるものは三井三菱になりえないと何人がいひ得るか、さらに第三世の時代に花が咲き実を結べばよいのである。
アメリカにおける日本人移民の歴史を考えたとき、一九三六年における小林のこのような発言は、容易に見過ごすことのできない問題をはらんでいるように思われる。たとえばアメリカ本土やハワイに在住する日系人で編成された四四二連隊と一〇〇大隊とが、第二次世界大戦の欧州戦線において全滅の危機にあったテキサス大隊を救出したという出来事の起こったのは、その六年後のことである。死者六五〇名、負傷者四五〇〇名の犠牲を出した戦闘は、戦後アメリカ国民に感動的なそれとして知られるようになり、それが日系人の立場の向上に資するところとなったが、一方で「最愛の息子をその戦闘で亡くして、生ける屍のようになってしまった」日系女性もいた(天沼香『故国を忘れず新天地を拓く』新潮社、二〇〇八)。また鳥越晧之はハワイから元一〇〇大隊に編入した比嘉太郎の言葉を紹介しているが(『沖縄ハワイ移民一世の記録』中央公論社、一九八八)、比嘉は前線に赴くときの心境を次のように語っている。
他の我々も同様、口に出しては言えなかったが、「母国のため」「生国」のためとはおもて向きであって、「屈辱を舐めている同胞のために」が心の支えであったようだ。少なくとも私はそうであった。
小林はハワイの日系二世についてもアメリカ本土と同様に「ハワイの国民の一人として働き、この国の永久の繁栄のために、その財産を蓄積し、その運用を考案し、われわれが本国にあつて実行しつつあるが如くに実行するならば、ハワイは諸君たちの永久の楽土として、繁栄し得るものと信ずるのである」と述べているが、日系人をとりまく環境とそのなかでいかに生きるかという問題は、出稼ぎ人から定住者へという意識の転換によって解決されるほど単純なものではあるまい。鈴木譲二は一九〇七年の『布哇年鑑』に独立自営業と判断されるものが半数近くを占めていることに着目し「実質的には出稼ぎから定住の段階に入ったことを示している」と述べているが(『日本人出稼ぎ移民』平凡社、一九九二)、とすれば、小林が声高に言うまでもなく、すでに三〇年近くも前から意識の転換は起こっていたのである。だが問題は、にもかかわらず少なくとも小林にはそのように見受けられなかったということであろう。「故郷に帰るだけの船賃はもちながら、つまり故郷へ帰る機会をもちながら、この『錦衣帰郷』のために、故郷へ帰れずに、移民した場所で死ななければならなかった人たちが多くいたことは事実である」とは、先の鳥越の指摘するところであるが、たとえば次のような一世の言葉に耳を傾けるならば、出稼ぎ人根性に執着する心情の複雑さが少しだけ見えてくるようだ。
貧しいままで故郷に帰れない。いわば立身出世をする必要があった。そのために移民はモロハメン(怠け者)にならないように努力しつづけた。徳勇さんは「はやくお金を儲けて帰ろうとするのに、おまえはきょうも休むのか」といって兄にしかられていた。しかし、「兄は、六二歳でハワイで亡くなったから、もう沖縄に帰ることができん」と徳勇さんはいっていた。(前掲『沖縄ハワイ移民一世の記録』)
かりに日系人の地位の低さに対する不平不満が小林の言うようにその出稼ぎ人根性からきていたとしても、彼らに対してそれを指摘することは彼ら自身にとって何になるというのだろうか。ただ問題があったとすれば、こうした一世の意識が二世との間に断絶を生む一因となったということであり、あるいはまた、こうした不平や不満にたいするアクションとして二世によるアメリカ軍入隊があり、多くの犠牲者を出してしまったとも考えられるということである。だがこれをやむをえないことだと言ってしまうのは「最愛の息子をその戦闘で亡くして、生ける屍のようになってしまった」彼女にたいしてあまりに無神経であろう。
アメリカの日系一世と二世の間にある断絶と、その一方にある「同胞」としての意識はさまざまなかたちであらわれる。その一例は二世への日本語教育であろう。『次に来るもの』刊行と同時期の二世の日本語教育については次のような指摘がある。
在米日本人は、米国の教育に遅疑をはさむことはなかったが、二世が幼いうちは家庭においても父母の使用する日本語を自然に用いることになるが、長じるに及んで英語をその常用語とするようになり、家庭においても兄弟姉妹や友人との間では英語を使用するようになる結果、父母との意思疎通が不完全となる問題が起る。(花園一郎「第二世問題管見」『北米年鑑』北米時事社、一九三六)
そういえば、アメリカの日系人の手になる小説に、俳句にまつわる一風変わった作品がある。日系二世、ヒサエ・ヤマモトによる「十七文字」である。主人公のロージーの母親である日系一世のトメ・ハヤシは、ウメ・ハナゾノという俳号で日系の新聞に投句している。ウメは夕食後、夜遅くまで俳句を書くのだが、その時は「別人になり、話しかけても答えないで、キッチン・テーブルに向って忙しく仕事をする」のである。この作品について佐藤清人は次のように述べている。
二世の小説家ヒサエ・ヤマモトの短編小説のなかに代表作『十七文字』という有名な作品がある。そのなかで、主人公であるロージーは母が日本語で書いた俳句が理解できないのだが、理解できたような振りをする。一方、母親は思春期の娘ロージーの胸に芽生えた異性に対する恋心を理解できずにいる。この小説は、一世と二世の間に横たわる言葉による断絶をモチーフの1つとしているが、そうした断絶は日系アメリカ人の文学史のなかにも見られるのである。『十七文字』はそうした一世と二世との文学の断絶を寓意的に表現した物語として読むことができるかもしれない。(佐藤清人「初期日系アメリカ文学に関する考察」『山形大学紀要』)
この作品で一世と二世の断絶の象徴として俳句が用いられていることは、それ自体興味深いことであるが、日系社会において「日本語」や「日本」への執着が俳句と結びつくという事例は特に珍しいことではない。ただそうした執着を世代を超えて共有することは困難であって、実際、「夕陽の如くにやがて消えてゆく運命にあると思ふ」という先のロサンゼルスの日系一世の言葉は、そのまま日系社会における日本語や俳句の運命を言い当てているようにさえ思われる。
前置きが長くなったが、表題句に話を移そう。この句は、ヨセミテ、グランドキャニオン、ナイアガラを訪問した際の旅行記「国立三公園遊記」の末尾に配置されたものである。
三時、ナイヤガラ滝の前に着。雄大にして豪壮、いつも同じやうな文句より泛ばないが、秋色正に濃かにして其風景の堂々たる、さすがに世界第一の滝の名所に背かず。しばらく雲煙朦々たる飛沫の前に立つて滝の上流を眺む、水天彷彿、秋の夕映へを賞しつつ、佇むこと久し。
大瀧や飛沫に秋の風もなし
「サンフランシスコからメーシード駅まで約百二十マイル、南太平洋鉄道でヨセミテ公園見物に行く」という一文から始まり、直前まで「大きなバスケツトの林檎が十銭から廿五銭位であつた」と口語で記述しているこの旅行記は、最後にきて文語体へと変化する。こうした文体の変化と「いつも同じやうな文句より泛ばない」という小林自身の指摘とは通底するところがあろう。小林はヨセミテの山峡の滝を「峻岩屹立、奇はすなわち奇なりと雖も水枯れて流れ貧しく、僅かに聞ゆるせせらぎの音の、むしろ峻嶺高峯にふさはしからず」と語り、メーシード河左岸の峰を「岩に奇態少きも天を摩す巨人の勇ましい姿」と語る。また「有名なるビツク・ツリーのグローブ」を「堂々雄大なる豪華版」といい、「グランドキヤニオン」を「大陸の風色豪壮なるは驚くべきも、何等変化なく、ただ一度ワンダフルと叫べば後は云ふべきことなし」という。ナイアガラの滝をして「雄大にして豪壮」といい、それを「いつも同じやうな文句より泛ばない」と自ら評しているのはもっともなことで、北米の風景を語るとき、小林はどういうわけか文語体を呼び寄せ、似たような言葉で語るのである。このような事態はなにも小林の言語運用能力の未熟さを示唆しているわけではあるまい。むしろ文章における修辞についての高い意識を示すものであろう。掲句はこうした意識のなかで生まれたものであろうが、その実、この句が先の文章を引き寄せたものかもしれない。
いずれにせよ、ここで小林が行っているのは、日本語によって北米の風景を構築していくという作業であった。これが「日本語」や「俳句」を「夕陽の如くにやがて消えてゆく運命」にはないものとしてとらえる意識によって書かれていることはいうまでもない。この文章やその末尾に据えられた句が美しいのはそのためであろう。そして、「夕陽の如くにやがて消えてゆく運命」を拒否するような小林の意識から生まれてくる美は、その一方で次のように書くことをいとわない思考と表裏をなすものではなかったか。
実際外国で働いてゐる同胞諸君を見ると、同情に堪えません。本人達はいづれも差別待遇などは少しもされて居らないやうな顔をしてゐるけれど、実際、堂々たる白哲人種を見ると(私が丈が短いから卑下するのではないが)私達は余程奮発しなければいつまでも、世界で大手をふつて威張つて行くのは六ヶしい、どうしても、此際、彼等を押さえつけて、国威を輝かし、国力充実を計るには、軍備を充実するより外に途なしと思ふのであります。