医療文芸集団編『白の墓碑銘』(東邦出版社、一九六八)の一句。本書は太平洋戦争中の従軍看護婦たちの手紙や日記などをまとめた記録集である。医療文芸集団が従軍看護婦の記録を収集し始めたのは戦後二〇年たった一九六五年からであったが、収集の際の苦労は本書あとがきに次のように述べられている。
私達が最も苦心したのは、遺品や遺書がなかなか見つからないことであった。日中戦争から太平洋戦争にかけて年平均二万六千人の従軍看護婦が出征し、うち日赤看護婦だけでも千八十人が戦死した。ところが、はっきり名簿として記録が残っているのは、日赤本社が発行した「遺芳録」にある赤十字看護婦だけ。それ以外は、従軍看護婦としてまとまったものはなく部隊側の軍人戦死者原簿のなかに点々とうずめられ、厚生省の書庫深くしまわれていた。
表題句は、こうした遺品のなかのひとつ、山野清子の手紙のなかに記されているものである。本書に記載されている山野清子の略歴は以下の通りである。
大正十五年九月生まれ。昭和十八年四月応召。大阪陸軍病院に勤務。十九年マニラ南方第十二陸軍病院に転属。二十年四月米軍の接近により部隊とともに転進中、七月十日バギオ東北の山中にて死亡。十八才。
太平洋戦争下の医療従事者不足にあって、厚生省は従軍看護婦の最低年齢を一八歳から一七歳に引き下げ(一九四一年)、さらに一九四四年には一六歳にまで引き下げた。こうした状況で従軍看護婦を志した一人が山野であった。山野清子の母、山野たいは清子が日赤に入社した時のことを次のように回想している。
その当時は、兵隊さんでなければ看護婦でと、軍部はなやかな時でしたので、山野家には女の子三人でしたから、清子は、どうしても日赤に行きたいと申して入社致しました。
親の口からほめるのは親ばかと思われるかもしれませんが、私にはすぎた子でした。入社試験のときも、付添いなどいらないと、一人で行きました。その時の話では、一千人以上も来ていたとのことでした。その時、目の見えなくなった人や、足が不自由になり看護婦さんに手を引かれているのを見て、清子は気の毒になり、「人なみ以上に五体りっぱなからだを、戦争のためにこんなにされた。戦争に行けない私は、この人たちのために、手となり足となる決心をいよいよかたくした」と、入社試験の作文に書いてきたと申していました。
佐野常民らが万国赤十字社にならってつくった博愛社が日本赤十字社となったのは一八八七年のことである。その定款には「本社は皇室を推戴して総裁とす」(第三条)、「本社は戦時の傷者および病者を救護するを目的とす」(第八条)とあって、博愛慈善を旨とする他国の赤十字とは性格の異なるものであった。従軍看護婦を目指した山野が日赤に入社したのは当時としてはごく自然の選択だったのである。本書には一九四二年に島根県松江赤十字病院甲種看護婦養成所に入学した鈴木妙子の回想録も収録されているが、鈴木は当時の看護婦のイメージについて「女の身ながら、兵隊さんと同じように、戦地で活躍していることが新聞やニュース映画で報じられ、夫人の職業では花形だった」と述べている。また、同じく本書に手紙が収録されている北尾富美子は満洲のハルピン第一陸軍病院に転属された後、一九四三年に腸チフスに感染し死亡したが、北尾の死は「靖國に帰る白衣の天使」と報じられたのであった。日本における近代看護は西南戦争において負傷した官軍兵士を東京府大病院において「バクレン女」と呼ばれる身分の低い女性たちに看護させたことをその先駆けとし、以後日本の看護婦は軍事的要請を受けつつ発展してきた面があるが、本書あとがきによれば、日赤の創立頃から政府がこの「バクレン女」のイメージを除き看護婦を「白衣の天使」に仕立てる政策を打ち出したという。政府が皇族、華族、政府高官の令嬢の協力を得て宣伝に努めるなか、日清・日露両戦争において従軍看護婦は華々しく報道され、流行歌にもなり、女性の憧れとなっていったのである。たとえば加藤義清が戦地に向かう従軍看護婦の姿に感動して作詞したという「婦人従軍歌」(一八九四年)では次のようにうたわれている。
真白に細き手をのべて
流るる血しほ洗ひ去り
まくや繃帯白妙の
衣の袖はあけにそみ
味方の兵の上のみか
言も通わぬあだ迄も
いとねんごろに看護する
こころのいろは赤十字
あないさましや文明の
母といふ名を負ひ持ちて
いとねんごろに看護する
こころの色は赤十字
一九四一年に脚気とマラリアに罹病し死亡した諏訪としの死は「誉は馨し血染の看護服」という大きな見出しとともに報じられたが、この見出しが、意味合いは違えどもどこか「衣の袖はあけにそみ」を想起させるのは偶然であろうか。従軍看護婦をテーマにした流行歌のなかには従軍看護婦自身が作詞したものもある。西沢都弥の「病院船の歌」がそれである。
灯暗き船内に
手足の自由失はれ
熱に苦しむ兵の
母ともなりて看取る時
大和をみなと生まれたる
使命と幸を思ふかな
沖の波風狂ふとも
不眠不休の看護婦に
無言の感謝あらはして
鬼をもひしぐ丈夫の
まなこに光る涙にぞ
船暈さへも忘れゆく
本書に収録されている阿部寛子の手紙(一九四一年三月二〇日)には、病院船勤務中に自分たち看護婦が船酔いをすると誰もが「病院船の歌」を歌っては元気づけていた、とも書かれている。ここで話を山野清子に戻せば、山野が日赤入社の際の試験の作文に書いたという「戦争に行けない私は、この人たちのために、手となり足となる決心をいよいよかたくした」という言葉が「病院船の歌」を想起させるのもまた、偶然であろうか。
このように書いてくると、表題句についても、戦時下という状況の中で書かされてしまった句にすぎないのではないかと想像できそうである。実際、この句の記された手紙(父母宛、一九四四年三月一二日)を見ると、その想像はあながち間違いでもなさそうなのである。
三浦女史の慰問があり、原千枝子のバンソウでした。世界的な人を見、なにか得るところがありました。
玉砕の後に続かん我こそと誓いぞかたき決戦の春 十九・一・一
勝抜る日白衣ぬぎすて行く兵(ヒト)の看護(ミトリ)の業に今日も生き抜く
今日もまた大空飛べる銀翼に看護(ミトリ)の業に熱ぞこもれる
大詔に再起誓える兵の顔 十九・三・八
下手な歌でも作っております。心にゆとりができるだろうと思って……。
ここに記された短歌や俳句は、「病院船の歌」とどれほど違うというのだろう。これらは見事なまでに、すでに書かれてしまった言葉ではないのか。けれど、そのような批判こそじつはお門違いなのであって、本当は、まるで同じであるということこそが大切なのではなかったか。誰かがすでに書いた言葉―そして自分やあなたが共有している言葉―を、自らの手でその時にもう一度書きつけたということそれ自体が大切なのではなかったか。むろん、山野にとってこれらはまぎれもなく自分の作品であったにちがいない。けれどもその一方で、もしも自らの手によって生まれた作品がまぎれもなく自分の作品であったなら、これほど苦しいことはあるまい。表現するという行為が尊いとすれば、それは、その行為が未踏の地への飛翔を目指すものだからというだけではない。見たことのある場所への着地を目指すような表現行為も、その切実さにおいて、決して軽んじられるべきものではないだろう。僕は、ここで山野が「心にゆとりができるだろうと思って」と書いていることは非常に重要なことだと思う。これらの短歌や俳句は、なにも自らを鼓舞しようとか奮起しようとかいう目的で作られたのではないのである。その表現によって想起される主体のありようと実際の行為者のありようとは厳密に区別されねばならない。マニラ転属後、山野は別の手紙(父母宛、一九四四・一〇・四)で「今日、再び、状況悪化につきいつにても心の準備をしておくように、との命がありました」と書きつつ、「ボタモチが食べたいとか、今頃だったら柿だ栗だ松タケだ、とおいしい内地の御馳走に、遠く重大化する比島にて、〝つもり会〟を開いております」とも書いているが、先の短歌や俳句を作る行為の切実さは、この〝つもり会〟の切実さに通底しよう。
十代半ばで看護師を志し、速成教育で看護婦となった後にマニラに転属となり、一年余りで死亡するほどの過酷な労働に従事した山野は、両親に向けて次のようにも記している。
毎日まいにちぐったりになって帰って来ます。野戦に来て、ラクはしようとは思いません。自分の好んで進み来た所なれば……。でも清子は常人、ある時は寂しくあり、またある時は泣き、くやしい思いでいっぱいになる時だってあります。でも、ぐっと一人かみしめて、一人慰めて、勤務しています。野戦へ来て、思っていたように少しはえらくなりました、清子は。
このように書いた山野が「心のゆとり」をもとめて俳句をつくったとき、それが、従軍看護婦にあこがれる一〇代の女性の言語生活のなかにあった言葉によって書かれたのは―そして「少しはえらく」なった従軍看護婦の言葉として書かれたのは―ごく自然のことであったろう。「寂し」いときや「くやしい思いでいっぱいになる時」、あるいは「ぐっと一人かみしめて、一人慰めて」いるとき、あるいは遠い故郷で心配している両親に「思っていたように少しはえらくなりました」と書かなければならないようなときに必要なのは、新しい言葉によって生み出された新しい世界ばかりではあるまい。少なくとも、山野における作る行為の切実さとは、「心のゆとり」をもとめようとして自分がすでに知っていた世界を自らが言葉によってもう一度たぐり寄せようとする者の見せるそれであったように思われる。