月本裕『「東京時代」は、永遠です。』(光文社、一九八六)の一句。本書序文で自らを「優秀で実直な医師の長男として生まれ、名門私立中学・高校を卒業し、有名大学をふたつもいいかげんに中退した私」といい「「ブルータス」などでライターやエディターをしながら、女子校の見える2LDKの高級マンションに住み、かわいい女子大生の恋人の愛情と献身にだらしなくなりながら、なんとなく現在を迎えていた」としているが、一九六〇年生まれの月本は当時法政大学に通いつつ『ブルータス』の編集等にも関わっていた。上記の文章からうかがえるように、月本は八〇年代の文化のただなかに自らを見出しつつ、それを当時の軽薄な文体をもって語っている(月本自身は本書における自らの文体について「それぞれ恩師の松田修法政大教授だとか、栗本慎一郎先生だとか、景山民夫、小林信彦、尾辻克彦(赤瀬川源平)、糸井重里などといった、現在を突っ走る人びとの文体が、未消化なかたちでくくりつけられて」いるものであると述べている)。本書は、「江戸時代は、東京時代と名を変えながら、いまだに続いている」という認識のもとに江戸時代と現在との連続性を論じたものである。
そもそも、本書上梓の背景には八〇年代に生じた江戸時代ブームがある。
成田龍一 八〇年代には「近代化論」そのものが陳腐化しているというリアリティが―本当に陳腐化したかどうかは別にして―「ニューアカ」的な読者共同体においてなんとなく共有されていたのではないかと感じます。
小森陽一 それまでの近代化論のようにひとつの座標軸で捉えるのではなく、近代を現代から切り離して、いきなり近代―日本が侵略戦争をしていた時代―を飛ばして、江戸時代から日本はポストモダンであったといった言説も支配的でした。かつての近代化論的日本の近代社会の姿を見たくないという思いが裏にあったように思います。
(略)
成田 江戸はポストモダンであるという議論が生まれたのは、近代の過程を日本は飛び越して、すでに歴史の先端を行っているのだという意識ゆえなのかもしれません。
(北田暁大・小森陽一・成田龍一「ガイドマップ80・90年代」『戦後日本スタディーズ』第三巻、岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一編著、紀伊國屋書店、二〇〇八)
月本も本書の冒頭で「江戸ブームという奴の実態のなさに、ヒジョーに悲しい思いをしている」といい、また「江戸学者、江戸タレントたちのうぶさをいいことに、彼らの鼻づらを引き回してあこぎなマネをしやがるんだから、ほんとうに始末におえない」と述べている。このような言葉からもうかがえることだが、月本は、たとえば「元禄ナントカというフレーズや江戸ブームに苦笑をくり返したせいで、すっかり顔の肉がたるんでしまった」とか、「ニューアカ・ブームと女子大生ブームの去った後のキャンパスで、安易に性交し、安易にたがいをしばりつけ、恋人という名の奴隷になりたがるカップルに、嫌悪感のあまりアニメのセル画を投げつけてしまったし、あふれる警察官、繰り返される不審尋問に、よけい人相が悪くなってしまった」というように、いかにも八〇年代らしい語彙を用いて自らの現在を語りつつ、同時に、そのように語ることで八〇年代から距離をとろうとしている。自ら「ブーム」と述べているように、江戸時代ブームがそもそも単なる流行として消費されているものにすぎない可能性があるということをじゅうぶんに自覚しつつ、月本があえてそこに参加し、同時に冷淡なまなざしを向けているのもそれゆえである。もっとも、このような分裂したスタンスで状況を語るということ自体が当時の「ブーム」であったようにも思われるが、その点について月本がどこまで認識していたかはわからない。けれども、とにかくこのようなスタンスにおいて、江戸時代を語りつつ「東京時代のうさんくささ」の根底にあるものを探ろうというのが本書の趣旨のようである。
さて、表題句は松尾芭蕉と糸井重里を比較して論じている箇所の小見出しとして用いられているものである。月本は芭蕉の果たした役割について次のように述べている。
芭蕉は、(略)笑いや芝居がかったセリフや、歌や、俳句や川柳の中に、失われし共同体や神話的世界を修復し、よみがえらせ、新しい共同体の共用語をつくりだすという方向に俳諧を再編したわけです。
かくして、人々をして俳諧の座に参加することでボキャブラリーゆたかに会話をなりたたせ、花をめでさせ、旅に楽しみを見つけさせる。心中をロマンティックにし、近親相姦を冗談にし、暴力をシャレにする。
このように述べたうえで、「その後も、今に至るまで、〈俳諧化〉は私たちの発想の基礎のあたりに根をおろしている」とし、「その基礎の上に、いろいろなものが重なり、ゆがみ、何度かおとずれた変化をすりぬけてきた。その変化のうちのひとつのかたちが、例の広告というやつだ」、あるいは「広告は、俳諧とよく似た役割を果たし、広告業界にこそもっとも優秀な才能が集まる、という説が強かったりもした」と述べる。
知らないけれど、彼はたぶんまだ社会変革への夢だとか、全共闘時代に受けたキズだとかを、体にしまいこんでいるんではないかな、とは想像される。志は、革命家。すくなくともそうなのではないか、と思わせる発言、行動が多い。「中核派の方法はバカだから、自分の方法でやりたい」といったような。
そのへんが、芭蕉について考えるときに、なんとなく糸井重里を連想させる原因であった。(略)
それは、糸井氏の言葉で言えば、消費産業・商人のコンセプト、といったようなものである。単純に「資本主義」とかいって片づけられない不気味なものを、それらは含みこんでいる。芭蕉の時代には、「資本主義」はそうしたわかりやすいカンバンを掲げては存在しなかった。しかし、そこには、たしかに同じものがあったのだ。私は強弁したい。
そして、それは、こわれてしまった共同体、分断されたネットワークを結びあわせるものとして甘い顔をしてあらわれた。そうした「商人のコンセプト」に奉仕するのが広告であり、俳諧である。
月本のいう「消費産業・商人のコンセプト」が含みこんでいるところの「「資本主義」とかいって片づけられない不気味なもの」がいかなるものであるのかは判然としない。ただ、「こわれてしまった共同体、分断されたネットワークを結びあわせるものとしての甘い顔」といういいかたからは、宮台真司らが八〇年代のコミュニケーションのありようについて述べた次の言葉が思い起こされる。すなわち「70年代後半から80年代を通じた、若い世代のコミュニケーションにおける最大の問題」は、「対人領域における複雑性の増大による〈関係の偶発性〉の上昇」であり、当時の「青少年マンガのコミュニケーション」には「コミュニケーションの成功や失敗の体験によって練り上げられた、人格システムの自己操縦に関わる、相当に安定した戦略のタイプ」が見られる、というものだ(宮台真司・石原英樹・大塚明子『増補サブカルチャー神話解体』筑摩書房、二〇〇七)。八〇年代において「若い世代」が直面していたのはコミュニケーション上の困難にどのように応じていくかという問題であったが、ここに「甘い顔」をしてあらわれたもののひとつが月本のいう「商人のコンセプト」なるものではなかったか。このように考えるとき、月本と同時代に俳句とコピーの関係について上野ちづ子(上野千鶴子)が次のように述べていたのは興味深い。
私が定型に一貫して持っている不満というのはね、定型っていうのが、実は情念の定型化、感性の定型化しか生み出していないんはないかってことを感じるんですね。おみなえしが咲いていると、ぱっと「道の辺のおみなえしはも」というフレーズができる。「道の辺のおみなえしはも」という見方が一ぺん定型化すると、道の辺のおみなえしは、そういうふうにしか見えなくなっちゃうんじゃないかということです。
上野はまた「俳句や短歌が、定型の桎梏と安逸の中で、表現であることを怠っているあいだに」「言語表現の準域はコピーの方が俳句より先に行っているのだ」とも述べているが、上野は「誰でもありうる〈私〉、誰でもない〈私〉」を「主語」とするコピーの表現に言語表現としての可能性を見出し、一方で、一九八二年をもってそれまで約一〇年間携わってきた俳句と訣別したのであった。それにしても、「言語表現の準域はコピーの方が俳句より先に行っているのだ」という言葉がどうしても時代がかって見えてしまうのは、俳句表現がいまだ言語表現の現在として屹立しうるということをその後の俳句史が証明したためなのだろうか。あるいは、結局のところコピーの表現にさほど伸びしろがなかったということなのだろうか。
本書において芭蕉と糸井とが接続させる月本によれば、どうやら後者になりそうである。月本は「絶好調時の彼は、じつに芭蕉をすら思わせるデキであった」が、「近ごろの糸井重里は無残だ」と述べる。表題句はこれを揶揄しているのだが、具体的には一九八六年の西武百貨店のコピー「元禄ルネッサンス」に対する批判、ということのようだ。八一年の「不思議、大好き。」、八二・八三年の「おいしい生活。」など糸井による西武百貨店のコピーは夙に知られるところだが、八六年の「元禄ルネッサンス」を月本が批判したのは、ようするに『ブルータス』一二二号(一九八五・一一)の特集名「元禄アールヌーボー」に「似すぎている」ということにあったようだ。月本は糸井自身の「内部の編集者が内部の読者に訴えかけていくという閉じた運動が、現在の雑誌メディアの方向」だが「コピーライターたちのほとんどが、昔のヒットコピーのコピーや、それぞれの雑誌の文体やイメージの引用をしたりして、急場をしのいじゃいるけど、やはりそれでは突破できない」という言葉を引きながら、「閉じた運動」をなす雑誌メディアの一つである『ブルータス』の特集名を引き写したようなコピーをつくった糸井の「無残さ」を指摘する。
興味深いのは、ここで「無残」な糸井に替わるものとして「とんねるず」を挙げていることである。月本は次のような糸井の発言を紹介している。
「元禄ルネッサンス」というのは、とんねるずが出てくるということなんです、まさに。教室ギャグなんてものが、電波に乗って走りだしちゃうという、これはもう、上から止めるとか止めないとかいうことを抜きにして、走っちゃうわけでしょう。そういうのが面白い、というのが僕の気分なんです。
(略)管理の糸って、細くて、柔らかくて、長くて、心地よいくらいになってるんだけど、その中から変なものがぽんぽんと浮かびあがってきて、それは泡みたいに消えちゃうかもしれない。とんねるずなんて、典型だよね。あれは管理の中からしか出てこない。教室という管理の中から出てきたギャグ。
月本はここで糸井が「とんねるず」を挙げていることを高く評価し、一方で、糸井は「いまやとんねるずのまえに老いさらばえた姿をさらすのみ」であるとも述べている。というのも、月本によれば「先端のファッションで稼ぎまくり、どなりちらしながらスタジオをかけぬけ」、「走りまわり舎弟をけりつける「オールナイトフジ」でのまったくソウカイな乱暴ぶり」を見せる「長身のとんねるず」のギャグは「〈教室の冗談〉でかたづけてもらっちゃ困るようなすごさ」だからである。だが、「〈教室の冗談〉でかたづけてもらっちゃ困るようなすごさ」とは本当だろうか。むしろ、とんねるずのギャグは「〈教室の冗談〉でかたづけてもらえるすごさ」ではなかったか。換言すれば、それは、宮台らのいう「コミュニケーションの成功や失敗の体験によって練り上げられた、人格システムの自己操縦に関わる、相当に安定した戦略のタイプ」のひとつとしての「無害な共同性」を前提としたギャグであったということではなかっただろうか。
さて、表題句について再び話を戻すと、結局のところ、この句は江戸時代ブーム、コピーの隆盛とその翳り、さらに「若い世代」のコミュニケーション上の困難といったきわめて八〇年代的な事象のなかにどっぷりと浸かりつつ、一方でそのような事象を揶揄していくというような、それ自体八〇年代的なふるまいのなかで生まれた一句であった。これを時代の仇花と言ってしまえばそれまでだが、このようにして忘れられていった「俳句」はいったいいくつあったことだろうか。僕はどれほど多くの俳句を忘れてきたのだろうか。