【47】秋筆で山肌まだらにそめわける     縣六甲

懐西会、西村和子共著『俳句作り 仲間作り』(デジタルパブリッシングサービス、二〇〇〇)の一句。「まえがき」には「この本は、いわゆる俳句入門書ではない」とあり、また「定年を迎えた人々が、人生二周目の余暇の過ごし方の一つとして俳句を選んでみたらどうであろうか、という提言書である」とある。「懐西会」は一九二九年生まれの大黒昭(華心)を最年長とする一〇名によるグループで、かつて富士通の社員であったこと、昭和六〇年から四五年の間に大阪にある管理職のための単身赴任者寮(園田寮)で生活を共に送ったことが縁となって生まれた。もともと俳句を作っていたわけではなく、在阪時に名所旧跡を訪ねることを楽しみとしていた彼らが、帰任後も東京近辺において同様の活動を続けようとした際に生まれたのがこの「懐西会」であったという。ちなみに、本書には幹事役の中島泰雄(羽笛)にとってこの懐西会の旅行の下見に夫婦で行くことが夫婦円満に繋がっているという旨の記述に続けて「史跡・仏閣、四季の花、素朴な郷土料理など、懐西会が目指すところはわれわれ中老夫婦の趣味趣向にぴったりだ」とあり、懐西会のおおよその性格はこのあたりから想像できよう。
俳句をつくるようになったのは懐西会が最初の活動として鎌倉を訪れたときのことで、「折角いろいろなところを歩いたり見たりするのだから、これを吟行という形にし、二句でも三句でもいい、俳句をつくり夕方の打上げ会の場を句会にしてはどうか」という提案が先の中島からなされたのだという。中島にはすでに句歴があったが、他の者はほとんど俳句をつくった経験がなかった。にもかかわらずこの提案が認められたことについて、大黒は次のように書いている。

 我々が俳句にそれほど抵抗を感じなかったのは、それぞれ多少共、俳句体験をもっていたからだ。そのことを説明するためには、富士通の「四十五才教育」というユニークな制度にふれなくてはならない。
 この制度は昭和五十四年にはじまったが、四十五才に達すると職場や役職のいかんを問わず三ヶ月間職場を完全に離脱させ、研修施設で缶詰教育をするという制度である。しかも教育の中身はビジネスに直接関係のあるものだけでなく、美術・音楽・歴史・宗教・俳句など一般教養のカリキュラムも豊富に組まれていた。(略)
 一般教養のカリキュラムでは、各科目とも最高レベルの講師が揃えられた。木村尚三郎氏(歴史)、阿刀田高氏(文学)、皆川達夫氏(音楽)、高階秀爾氏(美術)等々に並んで、俳句は金子兜太氏が選ばれた。同氏は日銀マンとして半生を送られ、近代俳句の旗手という異色の経歴の持ち主であっただけに、ビジネスマンであるわれわれの俳句の先生としてはまったく打ってつけの人であった。

ここで行われた金子兜太の講義というのは「辛口ながら興味深い俳句講話」の後にその時の季題を選んで作句をさせ、それぞれの句を講評するというものであったようだ。一九五〇年代の頃には自主的に結成した職場内サークルでの作句が盛んだったが、それから時代が下って一九七〇年代末になると大企業の社員教育として俳句の講義が行われるケースが存在したというのは、それぞれの時代状況を映し出しているようでおもしろい(金子兜太が講師として招聘されたというのもどこか示唆的ではなかろうか)。
ともあれ鎌倉での第一回目の吟行は無事終了したが、その際の最高点句(六点句)は次の通りであった。

水仙と同じ高さの石地蔵
木もれ日に絵馬の花咲く太子堂

大黒はこのときを振り返って「俳句をやっていると多少、教養と風雅をわきまえた文化人になったような錯覚におちいるから奇妙なものだ」と述べているが、これは「俳号をつけると、われわれのような初心者の作品でもなんとなく俳句らしく見えてくるから不思議である」と述べていることとあわせて「俳句」というものが「初心者」と自負する者にとってどのように見えているのかを示していて興味深い。先の金子による講義もまた「一般教養」としての「俳句」の講義であったようだが、このように「俳句」は「教養」や「風雅」といった言葉とあまりにも粗雑で安易なやりかたで結びついて僕たちの前に現れることがある。しかしながら、本書のようにこれらを結び付ける側がその粗雑さや安易さに自覚的である場合もあるのであって、だから、それを十把一絡げにして批判するのは間違っている。重要なのは、そのように自覚的な者が、それでもこれらを結び付けるとき、その手つきにこそ「俳句」なるものについての彼の認識が実に正直に表れているということを見落とさないことだろう。そして、そのような認識を他者のものとして退けるのではなく、むしろ「俳句」とはそのように認識されている何ものかであるということを認めつつ、改めて「俳句」とは何かと問うことであろう。
さて、表題句に話を移そう。この句は懐西会のメンバーである縣信元(六甲)の「使用前」の句である。「使用前」の句というのは、懐西会が西村和子の指導を仰ぐ前の句を指す。本書にはメンバーそれぞれの「使用前」の句と「使用後」の句がいくつか列挙されており、その変化のさまを見ることができるようになっている。なお、西村が指導をするようになったのは懐西会が五回ほど回を重ねた後のことであったという。縣の「使用前」と「使用後」の句は次のとおりである。

【使用前の句】
支え木に頼りて咲ける梅の花
おみくじの願いを結ぶ梅の枝
木下闇矢倉の中の過ぎし日々
うら枯れの庭に声する読経かな
秋筆で山肌まだらにそめわける
【使用後の句】
初午や父の遺せし幟文字
ものの芽の声かけ合ってゐるごとく
木片に値段を書きて柚子売れり
すれ違ふ径譲りつつ梅見かな
年玉を配る手じっと見詰めをり
すくと立ち十等身の葱坊主
野良着にて今日は枝豆売りに来し
段々に伝ふ馬酔木の雨雫
しりとりの旅の母と子夏休み
驚声に集まり来たり茸狩

こうした縣の「使用前」の句について西村は次のように述べている。

 縣六甲さん。以前の句を見ると、俳句とは神社仏閣や名所旧跡で作るもの、という固定観念が強かったようだ。梅の古木やおみくじや、下闇の矢倉、読経の声、そんなものが俳句の題材にふさわしいと思い、自分で題材を選んでいたようにも見受けられる。果して俳句とはそんなに古くさいものしか詠めないものだろうか。又、『秋筆』という言葉はいかにも強引。『山粧ふ』とか『山の錦』という季語を知らなかったのだろうから、無理もないが…。

西村によれば、縣の「秋筆で山肌まだらにそめわける」は本来「『山粧ふ』とか『山の錦』という季語」によって詠うべきものであり「秋筆」という「強引」な語は避けるべきである、ということになろうか。たしかにこの句は「『山粧ふ』とか『山の錦』という季語」によってじゅうぶんに表現できることをいかにもぎこちないかたちで書きあげたもののように思われる。だがここで注目したいのは、たとえ「『山粧ふ』とか『山の錦』という季語」を知らなかったにせよ、縣が「秋筆」という「強引」な語を用いて句を詠んだとき、そこにはどのような美が展開されたのかということである。そもそも「秋筆で山肌まだらにそめわける」の表すところのものと、「『山粧ふ』とか『山の錦』という季語」のそれとは同じものではない。「秋筆」の句とは、その句が縣によって書きとめられた以上、少なくとも縣自身にとって多少なりとも何がしかを言い得たものとして表出されたものであるはずであり、とすれば、そこにはこのように書くことでしか表出されえないものがあったのではなかろうか。そしてそれは「『山粧ふ』とか『山の錦』という季語」で代替可能なものなどではあるまい。
本書には西村と懐西会メンバーによる質疑応答集も収録されているが、そのなかに「どうしても有季定型を墨守すべきなのでしょうか」という問いがある。西村は「芸術表現のなかで『どうしても……ねばならない』ということはないと、私は思っています」と述べ、「どうしても十七音に収まりきれない破調が出てくるのは仕方がありません」、あるいは「形骸化した季語よりも、より強い力を持ったキーワードを使うという方向もあるでしょう」などと柔軟な考えを示しているが、それはあくまで「季題と十七音、という型を自分のものにした上で」の話であるようだ。

 型を習得してこそ『型破り』の魅力はあるもので、型を初めから無視した『破れかぶれ』は、子供の何気ない言葉が詩になっていたり、子供がめちゃくちゃに描いた絵に味があったりするのと同じです。

ここで「秋筆」の句に立ち戻ってみると、この句の魅力はまさに型を無視した、というよりも、型を知らないことによって生じたそれであって、西村のいう「子供の何気ない言葉が詩になっていたり、子供がめちゃくちゃに描いた絵に味があったりするのと同じ」という言葉こそこの句に対する評言としてふさわしいのではなかろうか。縣はその名の通り六甲山が好きで、在阪中には六甲山のハイキングコースをすべて踏破したいという思いに胸を熱くさせ、「六甲山という彼女とのお付き合いのゆえ」に「週末の夜は、様々な誘惑を撥ね退けて早く寝るように心掛けた」という。縣は「花鳥諷詠の俳句の世界に素直に入っていけたのは、何といっても六甲山で四季それぞれの自然の厳しさと美しさに親しんできた四年間の体験が大きな理由だと考えている」と述べているが、俳句について詳しく知るようになった後の―いわば「使用後」の―縣は、六甲山の自然について次のように述べている。

六甲山の四季の表情は豊かである。春にはスズランのような馬酔木の白い花が咲き、桜が山麓から山頂にかけて順次咲きのぼり、緑の山肌に色を添える姿はまさに一幅の絵である。俳句で『山笑ふ』とは、春の山の花咲き草萌えて生気溢れる姿を形容したものだ。(略)
秋を迎えると、満天星や数々の広葉樹の紅葉が色とりどりに山肌を飾り、まさに『山粧ふ』に相応しい美しさである。
冬になると、広葉樹は葉を落とし、常緑樹のみとなり『山眠る』となる。

ここでは、縣は春の山をして「まさに一幅の絵である」としているが、このあたりに先の「秋筆」の句に通底する感覚を見出すこともできよう。しかし一方で、縣はすでにこれを「山笑ふ」と形容するだけの知識を身につけている。また、秋の山についても「満天星や数々の広葉樹の紅葉が色とりどりに山肌を飾」るさまを「まさに『山粧ふ』に相応しい美しさ」と述べるほどに成長している。だがこのように「成長」した後で、はたして縣の目にうつる六甲山は、それでもなおかつてのそれと同じものであり続けただろうか。俳句の「型」を知らないことや、そのために生じる俳句の魅力をいたずらに特別視するのは間違っているのだろうけれど、「型」の習得(や習得するための努力)が表現者にもたらすまなざしの変化というものはたしかにあるように思われる。少なくとも縣はもう二度と「秋筆」の句のようなものを詠むことはあるまい。