【49】出立をまた見送るや霧の中     一葉

中村汀女『ふるさとの菓子』(中央公論社、一九五五。アドスリーより二〇〇六年に復刊)の一句。本書は汀女がさまざまな銘菓について書いた俳句と文章をまとめたものである。汀女にはほかに『栄養と料理』誌上での連載をまとめた『伝統の銘菓句集』(女子栄養大学出版部、一九七七)もあり、『中村汀女全句集』(毎日新聞社、二〇〇二)にはこの『伝統の銘菓句集』に基づいて「銘菓四季」と題した章も設けられているほどであるから、汀女と菓子とのかかわりには深いものがある。娘の小川濤美子が記したアドスリー版の「あとがき」によれば、汀女が五〇歳前後の頃に『週刊朝日』編集長だった飯沢匡の勧めによって書き始めたのがその端緒であるらしく、『ふるさとの菓子』収録の句と文章は『婦人朝日』、のち『婦人画報』に掲載されていた。小川はまた「最後の入院の頃まで母は、「菓子と俳句」を作りつづけた」とも書いている。「最後の入院」は汀女が八八歳(一九八八年)で東京女子医大病院に入院した折のことを指すのであろう。ただここで小川のいう「菓子と俳句」とは、先の『栄養と料理』の連載のほうを指すものかもしれない。いずれにしても『ふるさとの菓子』は汀女の後半生の仕事のひとつとして位置付けられるものであろう。
さて、本書について詳しく触れる前に、汀女が本書収録の作品を書き始めた時代についてもう少し確認してみたい。汀女の五〇歳前後といえば、第二句集『汀女句集』の復刊(四六歳、一九四六年)、第三句集『春暁』と第四句集『半生』の上梓、主宰誌『風花』創刊(四七歳、一九四七年)、第五句集『花影』上梓(四八歳、一九四八年)、第六句集『都鳥』上梓(五一歳、一九五一年)、日本経済新聞「俳壇」選者就任(五二歳、一九五三年)、『主婦の友』俳句欄選者就任、というように、終戦後まもなくの時代にあって女性俳人として華々しい活躍を始めた時期であった。疎開先の佐賀県で終戦を迎えしばらくそこに住んでいたという山下一海は、そのころの記憶として、母親が佐賀市の俳句会で分けてもらっていたというガリ版刷りの『汀女句集』があったと述べている(「戦後俳壇への汀女の登場(後期)」『俳句』一九九五・二)。これは文庫本大の句集で、「あのころにありがちの海賊版だったのかなという気もするが、研究用に汀女の許しを得て、九州地区で作ったものだと聞いたような覚えもある」という。山下はまた次のようにも述べる。

『中村汀女俳句集成』の『汀女句集』には、「戦後第三版」の「後記」というものも再録されている。昭和二十一年の養徳社再販本の第三版ということだろうから、ずいぶん売れたわけだ。おまけにガリ版刷りのものまであったのだから、『汀女句集』は戦後社会に大歓迎されたということになる。私はそのころ俳句少年だったのだが、ろくに読む本もなかったので、当然ながらその『汀女句集』を耽読した。私の現在の俳句観の根底のどこかに、汀女の句が影を落としているかもしれない。私にとって、汀女が俳句のすべてである時期がたしかに存在した。
 いま私は、個人的な思い出だけを語っているつもりはない。この私の体験は、そのまま戦後俳壇の体験であったはずだ。昭和十九年の句集の昭和二十一年における再販ということが象徴するように、汀女の句は戦中と戦後を貫く一本の棒のごときものであった。汀女によって、近代俳句の一つの伝統が、敗戦の混乱を経ながら、やすやすと戦後に受け継がれた。(前掲「戦後俳壇への汀女の登場(後期)」)

「この私の体験は、そのまま戦後俳壇の体験であったはずだ」という山下の言葉は、あながち間違いではあるまい。たとえば、一九四二年から二年間満洲へ単身赴任をしていた永井龍男は赴任先に持っていくわずか二三冊の書物のひとつとして『汀女句集』を選んだという。永井は汀女の句から鎌倉にいる妻子の留守宅の日々を思い浮かべたといい、また「「汀女句集」のおかげをもって、この間大過なく仕事を果たし私は今日に及んだと信じている」とも述べている(「豊かな花」『俳句』一九八八・一二)。戦中から戦後にかけて汀女はたしかに人気作家のひとりであったらしい。一九五〇年代の『俳句』には次のような言葉もある。

婦人雑誌のグラフには始終写真が出るし、俳句の選や、俳句入門の文章がいつも載つてゐる。四大婦人雑誌の発行部数は、あはせて三百万に満たないが、一冊を数人でよむとすれば、日本の女性の三分の一あるひは、それを越す数が、汀女さんの名を知つてゐるわけである。現在二つの婦人雑誌の選をしてゐる。この投稿は莫大な数にのぼるであらう。(志摩芳次郎「「風花」往来」『俳句』一九五三・七)

ちなみに、汀女は一九七二年に『日本経済新聞』の「私の履歴書」に初めて女性俳人として登場している。俳人としては荻原井泉水、富安風生、水原秋桜子、山口誓子に次いで五人目ということになる。汀女の功績として女性への俳句の普及ということがしばしば語られるが、これは汀女が俳壇内にとどまらずいわゆる「文化人」の一人として一般にも認知されていたことを示すものでもあるだろう。
ところで、先に引いた志摩芳次郎の文章のなかに、「菓子と俳句」の連載が始まったころの『風花』の読者層を記録した興味深い一節がある。

五月三日、「風花」五周年大会が、日比谷松本楼で催された。(略)列席した人の話によると、普通の結社とはちがつて、ちよつと「雲母」の大会の空気に似てゐて、出席者の平均年齢もかなり高くて、しつとりした好ましい雰囲気がかもされてゐたさうである。大人の集ひである。

志摩はまた「中年以上の社会的にも相当の位置をしめた人が多い」とも述べている。考えてみれば戦後間もない当時にあって日本各地の銘菓について書くというのは、その行為自体が、読み手にある程度以上の水準で生活している「中村汀女」なる者を想起させるものあったはずである。実際、先の小川濤美子などは「そのころは中々頂けない高価な品」であったと回想しているのであって、たとえそれらの菓子が編集部から届けられるものだったとしても、高級官僚を夫に持つ主婦であり家庭生活を詠んで人々の心を潤わせていた著名な俳人であるという汀女の社会的な地位とあいまって、この連載がいわば「憧れの主婦」としての汀女のイメージを形成する要因のひとつであったであろうことは想像に難くない。その一方で、汀女もまた、次のような書きかたが理解できる程度には人生を過ごしてきた人間を、自らの読者として想定していたのであった。

ふらここを揺りもの言はず言つてくれず
今日は私の窓に、近所のどこかで鞦韆の音が聞こえ、子供の明るい声がひゞく。これが出来たのは落花しきりだった赤坂弁慶橋。あそこら戦後の変わりようの寂しさ。(千本羹)

 砂糖のなかったあの戦争を経てきたいま、こんなにたっぷりの白砂糖につけた昔のまゝの秋田蕗に対面する。まるで感じが違うのである。記憶というものゝ可笑しさを、私はこの蕗漬で経験した。(「蕗の砂糖づけ」)

さて、表題句に話を移す。
この句は箱根の温泉旅館「きのくにや」の女主人である一葉が詠んだ句である。汀女は箱根の銘菓「湯餅」を紹介するなかでこの句を引いている(なお本書で紹介されている湯餅は現在強羅の菓子舗「花詩」で「温泉餅」の名で販売されているが、そのパッケージには汀女の句「なつかしと湯の餅とれば山の蝶」も記されており、汀女と銘菓との繋がりがこんなところからもうかがわれる)。

 二月、箱根芦の湯では、すぐ前のスケート場がかんかんに氷結して、拡声器に乗ったレコードが双子山にはね返り、湯宿つゝぬけであったが、山頂の寒烈風のなかに、若人たちの楽しい肢体を見るのは快く、夜は私たち一向めいめいに炬燵があって俳句会。柔らかい湯餅は湯を出た温くみ、炬燵の温くみに似て、おいしかった。
 今度は真夏、日射しは箱根に於いて、冴えてきついと思うのに、芦の湯は肌寒いほど涼しくて、目の前を真っ白い霧がよぎる。そして又ここ、きのくにや旅館で出してもらったのは、なつかしい湯餅、くるりと円く竹の皮に巻いたものゝ重量感、まがうかたない餅のたのしい重みである。

「きのくにや」といえば一七一五年創業の老舗温泉旅館である。明治天皇も立ち寄ったという名旅館に冬に夏にと宿泊して俳句を楽しみ、のみならず、その「女主人」を「私の句の仲間」と呼ぶ汀女に対する読者のまなざしはいかなるものであったろう。また、汀女は亡くなる寸前までベッドで俳句をつくりつづけたというが、汀女にとって俳句をつくるということはいかなることであっただろう。
度々の引用になるが、先の志摩芳次郎の文章には次のような言葉もあった。

人間と人間のあたたかい血の繋りによる集ひ、それが「風花」である。
 社交機関といふ非難もでてくるであらう。あるひは身上相談的な主婦達の歎言の場と化す場合もあるかもしれない。(略)
 主婦を中心にした結社といつては、言ひすぎかもしれないが、ともあれ「風花」に属する俳人が、日本社会における健全な中堅層であることは間違ひない。急激な革新を嫌ひ、静謐と平和を好み、骨の髄は保守主義だけれど、いくぶんかは進歩的であるのが、主婦だから、主婦を中心にした「風花」の性格が、これに近いのは当然であらう。
 主婦は生活のズイである。大地にシツカリと足がついてゐる。へなちよこ男共は、家庭の主婦には断然頭があがらない。主婦の精神は強靭無比である。平和をまもりたいためには「青年よ銃を取るな」の進歩的な政党へ一票を投じて悔ひないが、さりとて、生活に直接ひびく、電産や炭労のストにたいしては批判的である。

汀女が菓子についての連載を始めた当時は、一九四七年の第二芸術論の発表から根源俳句論争を経て社会性俳句の隆盛にいたるまでの時代でもあった。そのような時代に、かつては蔑称ですらあったはずの「台所俳句」の名をもって自らの句を称したのが汀女であり、菓子についての句と文とを延々と書き続けていたのが汀女だったのである。また、主婦としての仕事と俳人としての活動との両立に悩み「子供の勉強のかたはらで歳時記をひろげたいとき何かやましさすまなさを感じます」とその心境を吐露することもあったが(「主婦と俳句」『ホトトギス』一九三九・四)、その一方でしばしば「主婦」と自称していたのも汀女であった。「台所俳句」を生きることが実はどれほど困難なことか。そして「俳人」と「主婦」とを生きることがどれほど困難なことか。本当は、それらを身をもって示していたのが汀女ではなかったか。ただ、汀女の場合は川名大のいうように「夫唱婦随、良妻賢母の人生であり、それを反映した俳句的人生や俳句」であって(『挑発する俳句、癒す俳句』筑摩書房、二〇一〇)、汀女自身もそうした自らのありかたに対する疑問をほとんど語ることがなかったから、その楽天的にさえ見える身振りがともすれば批判の対象になったのであろう。けれども、自らのありように無自覚な者が「中村汀女」を生ききれるものか。
このような汀女を思いつつ、たとえば『ふるさとの菓子』に収められた「本の字饅頭」と題する次の一文を読むとき、僕はなにか恐ろしいような気持ちになる。

好きなものと言わるれば、私はやはり饅頭をあげる。思い出すこと一つ。
 とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
これは横浜・三溪園の池のほとりでできたが、このとき、私は好きな饅頭を持っていた。
まして、これは駿河屋の、れっきとしたもの。「本の字」の古風な焼型も魅惑十分。日が経ったら焼いて食べるようにとの達し。大いに有難い。こんなたのしみは私みたい年頃にならねばわからないかしらん。

奇しくも高柳重信の『伯爵領』上梓もまたこの時代(一九五二年)であったが、僕には、汀女もまた汀女の「伯爵領」を生きていたように思われてならない。そういえば、「汀女の句は戦中と戦後を貫く一本の棒のごときものであった」という山下の先の汀女評は、高柳重信の句のある面を言い当てた言葉であったようにも思われる。

※引用した『ふるさとの菓子』の句と文とはすべてアドスリー版による。