【50】藁で馬を拭いてやるなり夏の月  赤松柳史

 

 

赤松正次『柳史俳画 巣立』(青門山房、一九四一)の一句。赤松正次(一九〇一~一九七四)はむしろ赤松柳史の名で知られていよう。一九四八年に俳句俳画誌『砂丘』を創刊・主宰した人物で、戦後の俳画界を牽引してきたひとりである。本書は柳史の第一句集であるが、題名にあるように前半は青木月斗や岡本圭岳らの句あるいは自句を賛した俳画集であり、後半が俳句集となっている。『現代俳句大事典』(三省堂、二〇〇五)では柳史について次のように記してある。

一九二五(大14)年、中国遊学から帰国後、松瀬青々主宰誌「倦鳥」で俳句を学び、日本画を森二鳳に学んだ。その後独自の「柳史俳画」を確立した。

この「柳史俳画」なるものは砂丘会、柳史会などにおいて現在でも継承されているようだ。柳史には『柳史俳画教室』全一〇巻(創元社、一九七一~七四)があるが、柳史の俳画指導書としてはすでに『俳画入門』(創元社、一九五三)がある。以後『俳画手帖』(創元社、一九五五)、『俳画描方』(創元社、一九五七)、『新俳画手帖』(創元社、一九五九)など指導書を多数上梓している。いま手元に新版『俳画入門』(創元社)があるが、旧版から内容を一新した本書の初版の刊行年は一九六四年。僕の手元にあるものは一九六九年刊行のもので第一二刷とあるから売れたには違いない。
この連載でも触れたが、この「俳画」なるものほどその実体をとらえにくいものはない。「俳画」という語の発生とその定義の変遷についてはすでにこの連載で触れたのでここでは省略するが、先の新版『俳画入門』にみられる柳史の見解をここで再び引いてみたい。

一目にして 俳画と判るものを描けばよい
俳句の賛がなければ 俳画でないものは真の俳画ではない
例えば
画がなってその画にどうしても句賛の出来ないとき
  作者は そのままで、敢えて賛を加えない
それに無理から句を入れる事は 画に対する作者の見識をうたがう

戦後の社会において柳史の俳画指導が支持されたのはなぜだったろう。柳史は上手は専門家に任せればよいと語っていたというが、それは裏を返せば、下手な俳画というものがありうるということの明言でもあった。しかしながら、もともと俳画(あるいは俳画を描くという行為)と下手な絵(あるいは下手な絵を描くという行為)とはしばしば明確に区別されてきたはずのものであって、柳史が「下手な俳画」をいわば素人芸として認めたということはこの区別を曖昧にするような、どこか危うさをはらむ事態だったのではなかったか。たとえば、まだ柳史が俳画に携わる以前、中村不折は次のように書いている。

自分に絵の揮毫を依頼しに来る人の中にも俳画を目して普通の画(仮りに言ふ)よりも無雑作に簡易なものとして「俳画でもよろしう御座いますから。」などゝ言ふ人がある。これは大いなる誤りであつて、実は俳画は他の絵画よりも寧ろ六ツかしいものなのである。(中村不折「俳画とは何か」『ホトトギス』一九一八・一〇)

ここで不折は「普通の画」よりも「簡易なもの」と考えるのはその鑑賞者の見識の浅さゆえであって本来俳画は「他の絵画よりも寧ろ六ツかしいもの」であるとしている。下手な絵を排し、俳画固有の美意識を語るというこの種の論法は俳画擁護者の発言においてしばしば見られるものである。

▲私は今行はれて居る所謂俳画の大部分を悦ばぬものである。何故かと云ふに其等は俳画と云ふものを単に筆致を省いた乱雑なものとのみ思つて居るかの様に見えるからである。(石井柏亭「私の考へる俳画」『ホトトギス』一九一八・一一)

おもしろいことに、柏亭はこのように俳画についての誤解を指摘するものの、では優れた俳画とは何かということになると途端に口ごもったような言いかたになってしまう。

▲尤も俳趣があるとか無いとかは人々の直覚によることで、これは何処に俳趣がある、どう云ふ理由から俳趣ありと認めると云ふやうに断定することは出来ない。だから私が俳趣なしと考ふるものに他の人が俳趣を感ずることは勿論有り得るものである。(同前)

これでは何も言っていないのと同じである。ただわかることは、どうやら彼らが「俳画」なるものに何らかの特別な価値を付加しようとしていたらしいということである。注意したいのは、不折や柏亭の手になるこれらの記事が何のために書かれたのかということである。そもそも一九一七年といえばホトトギスが主催した俳画展覧会が三越楼上で行われた年である。不折や柏亭の俳画論がこの展覧会に合わせて掲載されたものであったのはいうまでもないだろう。同年末の『ホトトギス』には芥川龍之介と津田青楓による展覧会レポートが掲載されているが、芥川のそれのなかに興味深い一節がある。

俳画展覧会へ行つて見たら、先づ下村為山さんの半折が、皆うまいので驚いた。が、実を言ふと、うまい以上に高いのでも驚いた。尤もこれは為山さんばかりぢやない。諸先生の俳画に対して、皆多少は驚いたのである。かう云ふと、諸先生の画を軽蔑するやうに聞こえるかもしれないが、決してさう云ふつもりぢやない。それより寧ろ、頭のどこかに俳画と云ふものと、値段の安いと云ふ事とを結びつけるものが、予め存在したと云つた方が適当である。(芥川龍之介「俳画展覧会を見て」『ホトトギス』一九一八・一二)

先の不折や柏亭の言葉を踏まえて考えると、ここで芥川が披瀝している感覚こそ、俳画に対する当時の一般的な感覚であったように思われる。とすれば、(極論めいた言いかたかもしれないが)不折や柏亭の俳画論は、俳画がもともと持っていた価値を語っているというよりも、「値段の安い」絵と大して変わらないはずの作品を、それを「俳画」と呼ぶことで新たに価値を付与していくものであったとはいえないか。むろん、不折や柏亭に俳画論を依頼したのは虚子であったろう。したがって、ここに虚子のある種の戦略がうかがえはしないだろうか。
ここで思い起こされるのは、子規没後の『ホトトギス』において虚子がしばしば「俳句趣味」という言葉を用いていたことである。
鈴木章弘は「写生文」の文学性を保証するものとして書き手の「面白し」という感情に注目したが(「商標としての「写生文」」『漱石研究』一九九六・一二)、『ホトトギス』ではこの「面白し」をより『ホトトギス』の特権的な言葉に置き換えていく作業が行なわれていく。すなわち「俳句趣味」の主張である。たとえば「ホトヽギス派の文章と名文家」(『ホトトギス』一九〇五・五)では筆者の「ちよいん生」が「ほとゝぎす派の文章の面白味は一言以て之を掩へば其溢るゝが如き俳味にある」と述べ(傍点原文)、さらに次のように言葉を続けている。

俳味とは厭味の反対である、俗気の反対である、執拗(しつこい)の反対である、(中略)ほとゝぎす派の文章は境を天地以外の夢幻界に求めない、思を現実以上の理想境に馳せない、(中略)苟くも俳人的洒々落々たる胸襟を披いて事物を見れば、天地は俳趣を以て充された一大パノラマである、此パノラマに入れば平生卑属と見たものに雅致がある、普段平凡と思ふたことに、奇抜なところがある。ほとゝぎす派の文章は即ち此趣を伝ふるもので(ちよいん生「ホトヽギス派の文章と名文家」『ホトトギス』一九〇五・五)

この文章で述べられている「俳味」や「俳趣」とは、かつて鳴雪が述べた「俳句趣味」に近い(「随問随答」『ホトトギス』一九〇一・四、一九〇一・六)。すなわち「淡白なること」、「洒脱なること」、「奇抜なること」。しかしここで気づかされるのは、「俳味」というものが、既存の価値観を変更しないと感じ取ることの不可能なものであるということである。ところで、当の虚子は『ホトトギス』一九〇五年二月の「消息」で「俳句の趣味」を「発達した」「文学」や「美術」の「趣味」であると述べている。そして俳句は「十七字」の形をとっているが「其精神其趣味」はすべての文学・美術に応用できるものであるとする。この応用は「正しく俳句の価値の一面」である。だから『ホトトギス』が俳句以外の文学や美術に手を伸ばしていることは「俗化」にはあたらない。さらに、このような批判をする者にたいして「此種の人は俳句をも解せざるなり」とまで言う。

ここで虚子が述べた内容とほぼ同じことがらは、パターンを変えて虚子自身や坂本四方太によって幾度も繰り返されることになる。たとえば一九〇五年九月の「消息」であるが、ここで虚子はまず「八巻中俳句の分量減じ小説写生文等の分量増加したること」への「忠告」について、『ホトトギス』に掲げた「文章詩歌」は「俳趣味」に立脚したものであると答えている。そして「十七字は俳句の形なり」と述べ、「然れども俳句趣味なるもの」があると言う。さらに「俳句趣味」を「発達せる趣味」であるとして、「之を他の文学美術に及ぼ」そうとする意志を語る。

一方、当時『ホトトギス』の論客でもあった四方太は、はじめ「写生文」を「写生趣味」だと述べている(「写生文の事」『ホトトギス』一九〇二・一二)。四方太の言う「写生趣味」というのは、たとえばたんに蝋燭の溶けるさまを忠実に写しただけの文章をもよしとするものであって、それこそ「雑報」と区別のつかなくなるような文章を「写生文」に仕立て上げていく。また、「写生」について、すでに四方太は「写生」という文章で「俳句を作る上に写生の必要な事は今更云ふまでもない(中略)俳人は最も写生を重ずべきものと思ふ」と述べている(「写生」『ホトトギス』一九〇〇・一二)。四方太の場合は「俳句」「俳人」と「写生文」とをより直接的に結び付けようとする過程で、こうした言説を変換しつつ「俳句趣味」なる語を引き出してくる。

写生文は俳句と並び得べき趣味を散文の上に現はさん事を目的として居る。俳句を以てせずして俳句趣味を世人に伝へるには唯一の利器である。俳句は実をいへば俳人以外に分るもので無い。(中略)俳人以外の人には散文で導く外に手段は無い。斯う考へると写生文は只だ俳人の余技たるに止まらずして実に重大な任務を帯びて居るものといはねばならぬ。(中略)実際の技倆はまだ俳句趣味の一部分を伝へるに過ぎぬのみならず、時としては識らず/\俳句趣味に遠ざかるやうな場合さへ有るのであるが、目的は決して変らない。(「文章談」『ホトトギス』一九〇六・七)

まず四方太が「写生文」と「俳句趣味」とを結び付けていることを確認しておこう。そして「俳句」を「俳人以外に分るもので無い」と述べている。この言いかたは、「俳句趣味」がわかるのは俳人だけだ、という見方を裏に秘めていよう。そしてここで四方太は「俳句」に必要な「写生」についての説明をあえて捨てて、「俳句」がいかなるものであるのかということについての説明を伏せてしまう。四方太はこの後の部分で「ホトヽギスの写生文は全廃して俳句専門にしたら善からう」という批判にたいして「僻事」だ、と反論し、「俳句」と「写生文」との深いつながりを強調する。四方太はまた「文話三則」(『ホトトギス』一九〇六・一二)においても次のように述べる。すなわち「著しく感覚を刺激する月とか花」以外の「自然美」は「普通の人」に解されておらず、「枯菊の趣味、枯葉の趣味などに至つては俳人以外殆ど知るものが無い」。そして「写生文の趣味は俳句から出て居」て、「写生文は俳句の形式を離れて成るべく解し易く此趣味を伝へんとして居るのである」。

また「写生文に対する迫害」(『ホトトギス』一九〇七・六)のなかでも「写生文は俳句臭味を帯びたイヤに気取つたものである」という批判にたいして、「それは堕落した方面ばかり」すなわち「我々」の言うところの「月並趣味」ばかりを見ている故のことで「純正なる俳句趣味」を知らないからそのように言うのだと述べるかたちで「俳句」と「写生文」とをあらためて関係づけている。だがやはり、それほどまでに強調する「俳句」とは何なのか、「俳句趣味」とは何なのかという問いが欠けている。

また一方で四方太は、「俳句趣味」を「天然」を材料とするものであると規定してはいる。だが「時としては識らず/\俳句趣味に遠ざかるやうな場合さへ有るのであるが、目的は決して変らない」という言葉からは、むしろ「俳句趣味」が一定の定義を持たないものであることが暴露されてしまっているのではないか。そしてこうした一連の四方太の言葉からより明確に受け取れるのは、四方太が俳句趣味についての理解を俳人の特権としたり(「文章談」、「文話三則」)、人々の俳句趣味への無理解を嘆いたり(「写生文に対する迫害」)するかたちで「俳句趣味」を『ホトトギス』の文章を象徴する言葉として語っているということである。

「俳句趣味」という言葉が冠せられた『ホトトギス』の文学作品とはいかなるものであったのだろうか。『ホトトギス』の巻頭に載せられた散文作品うち一九〇四年~一九〇七年のあいだに掲載されたものを列挙すると、たとえば以下のようである。すなわち「吾輩は猫である」をはじめとして、伊藤左千夫「千本松原」、寒川鼠骨「釜池行」、山本四方太「売家」、虚子「四夜の月」、左千夫「野菊の墓」、鈴木三重吉「千鳥」、鼠骨「富士の夕映」、寺田寅彦「嵐」、四方太「秋二題」、寅彦「山彦」、野上八重子(弥生子)「縁」、虚子「楽屋」、虚子「風流懺法」、虚子「斑鳩物語」、八重子「七夕様」、虚子「大内旅館」、虚子「同窓会」、虚子「雑魚網」。

これらはいわば当時の『ホトトギス』を代表する作品と目されていたはずである。これらの作品が共通して「俳句趣味」を持っているか否かという問題はひとまずおいておく。ここで注目すべきは、虚子や四方太がこれらの作品からわざわざ「俳句趣味」を引き出すような読みを行なったという点である。この「読み」がもとより不特定多数の読者の視線を意識したパフォーマンスであったのは言うまでもない。重要なのは虚子や四方太はとりあえずこれらの小説のなかにあえて「俳句趣味」を見出だし、かつ、その「読み」を語ったということである。それは、散文作品に「俳句趣味」のレッテルを貼るためであり、またそれは「俳句趣味」を『ホトトギス』の商標に仕立てる上で必要な作業であったのではなかったか。

そもそも、なぜ「俳句趣味」なる語を虚子がこれほど重視したのか。このことを考える際に忘れてはならないのは、事業者としての虚子の側面である。

文学としてではなく、事業として『ホトトギス』が成り立つか、どうか。下宿屋もやる、竹細工も売る、その後、清酒まで扱い、出版業にも手をつけ、その俳書堂の営業不振のため、碧梧桐を通じて岐阜の塩谷鵜平から金五百円也を借りている。(中略)それだけでなく、虚子は、中国の重慶にまで赴いてマッチ会社の経営まで考える(上田都史『近代俳句文学史』永田書房、一九八八)。

虚子は「余は今日に至る迄文学者を以て自ら任じてゐた」(「第五巻第一号のはじめに」『ホトトギス』一九〇一・一〇)と述べているが、文学者として生計を立てていこうとしていた虚子にとって、事業としての『ホトトギス』の成立の可否は重要な問題だったろう。だが、文学者として雑誌を経営して生計を立てていく、というのはどこか矛盾めいた言いかたのようでもある。虚子もその矛盾に気づいていたようで、次のように述べている。

読者諸君に請ふ。若し発心して坊主になるといふ事を許して下さるなら発心して商売人になるといふ事を許して下さい。今迄余は文学者の看版をかけて其実商売をやつてゐたといふ批難を蒙つても弁ずるに言葉がない。(中略)俳書堂主人としての一個の商人も時々諸君に伍して句を作り文を論ずるの許しさへ得るならば、曾ていつた園主としての責務は決してなほざりに致す積りではない。又致すべき筈もない。(前掲「第五巻第一号のはじめに」)

ここにおいて商売人を自認することとなった虚子だが、もともとは必ずしも俳句専門雑誌ではなかった『ホトトギス』を、「俳句趣味」の雑誌として売り出した虚子の意図は、もとをたとえばこうした経営難にあったように思われる。
また、虚子と四方太の言い方において特徴的なことのひとつは、俳句を雑誌の中心に据えていない『ホトトギス』を「俗化」したものとみなす批判への抵抗の意識である(批判にたいする四方太の「俳人以外の人には散文で導く外に手段は無い」という言いかたは、考えてみればひどく強引である)。「俳句趣味」についての四方太らの文章の書かれた時期というのは『ホトトギス』が「俳句趣味」の応用という名目で、俳句そのものからは離れていた時期であった(もっとも『ホトトギス』が俳句よりも散文を重視するという傾向はこのときばかりに見られるものではない)。「俳句趣味」は、あくまでも散文や美術を『ホトトギス』誌上で取り上げることを肯定するための論理のなかで要請されたのだ。説明もなしに「俳句趣味」を「発達せる趣味」であると規定した虚子の行為も、こうした流れのなかで要請されたものだった。一九〇四~〇八年にかけての『ホトトギス』において俳句以外の「散文作品」や「美術」が加わることにたいする非難への抵抗の意志が何度も看取されるのも、それだけ当時の『ホトトギス』に対する非難が大きかったということであろう。それでも『ホトトギス』は、ついに「小説雑誌」として自己規定するというところにまで進んでいったのである(高浜虚子「第十一巻第一号以後」『ホトトギス』一九〇七・九)。

さて、ここで改めて俳画の話に戻れば、このような戦略の約十年後にいかにも不思議な「俳画」肯定論が『ホトトギス』に現れたことは、当然のことであったろう。そしてその「俳画」が何をもって優れているのかがわかりにくいのもまた当然のことであったろう。というよりも、むしろわかってしまってはいけないのであって、その魅力はあくまでも神秘的なものでなければならないのである。このように考えたとき、柳史のあっけらかんとした「下手」肯定論は、この文脈から外れたもの、その意味では新しいものであったといわねばなるまい。
最後に表題句について触れてみる。この句は「夏柳」と題した俳画に賛された赤松の自句である。縦長の画面の上方から垂れ下がった柳の枝とその下方にやはり柳の枝のごとくさらりと書き流されたこの句はいかにも静謐な夏の宵を思わせる。

掌をしみじみ見たり春火桶
藪入や四五人話す船の隅
うすものゝ女胡瓜の匂ひかな
雪の上へ霜を加ふや青々忌

人間を詠んだ柳史の句には静かな趣のものが少なくない。とりわけ師の松瀬青々の忌を詠んだ句などは本句集末尾で里見禾水がいうように柳史の句のうちでも絶唱のひとつであろう(「柳史俳句抄の終りに」)。もっとも、俳人としての柳史の本質は、むしろ伸びやかで素朴な詠いぶりにこそある。

つくねんとして殿様蛙在すなり
すきで好きで好きでたまらぬ木瓜の花
はづかしきなりして女焼さゞゑ
冬の鯊白楽天の好きさうな

表題句の「藁で馬を拭いてやるなり」というやや粗雑にさえ見える詠いぶりはこうした句に通底する他者への深い愛情の表出であったように思われる。
ところで、この句を賛した俳画は、はたして専門家の為した「上手」の仕事であったろうか。あるいは「下手」の仕事であったろうか。柳史を語るときに難しいのは、なにより柳史の仕事自体が、その線引き自体の有効性を問い直すものであったためなのである。